誰が一番得をするか?
たとえば、戦争を行って、勝利したとしよう。そうなると何が始まるかということである。
一つは、
「論功行賞」
というものがあるだろう。
つまり、手柄を挙げた配下の者に対して、
「恩賞を与える」
というものである。
恩賞というと、何かといえば、言わずと知れた、
「土地」
である。
この土地というのは何かというと、戦をした相手国の領地である。そこを、部下たちに恩賞として与えるのだ。
そうなると、どういうことになるか? 普通、これまで領主様ということで、尊敬してきた領主を打ち負かした、本来であれば、
「憎き敵」
を、領主として、今度は仰がなければいけないのだ。
当然、土地の人間の中には反乱を起こしたり、素直に従わない人もいるだろう。
そんな連中に、
「前の領主は負けたのだ」
といって、
「今度は俺たちに従え」
というのは、あまりにも人心を掌握できていない証拠である。
つまり、これまで敵であった領地を貰ったとしても、そこに、住んでいるのは、今まで敵だと思っていた相手なのだ。その連中を従わせるようにするのが、領主となった人間に責任であり、手腕ということになる。だから、
「何も、論功行賞というのは、褒美だけだというわけではないのだ」
そういう意味で、戦国大名などは、自分だけがしっかりしているだけではダメで、配下の武士団たちも、しかしとした人が不可欠なのだ。
「これから、どんどん占領を増やしていって、天下を狙おう」
と思っている連中にとっては、
配下の武将の教育も必要だ。
しかも、時代が時代なので、
「今は自分に従っているが、そのうちに、隙あらばということで、下克上を狙っている連中がいるかも知れない」
ということになるのだ。
何と言っても、
「親を追放した、武田信玄」
「親だと思っていたのが、そうじゃないと勘違いされて、子供に謀反を起こされ、殺されてしまった斎藤道三」
「母親に殺されそうになった伊達政宗」
「さらには、息子と、正妻を殺した徳川家康」
など、実際には、
「何でもありの世の中だ」
といってもいいだろう。
それが、
「群雄割拠の戦国時代」
というもので、配下の者に、謀反を起こされるなどというのは、当たり前のことだった。
家族を政略結婚させたり、同盟を結んだ相手に、息子を送り込んで、
「人質」
として差し出したり、当たり前にある。
有名な真田信繁(幸村)も、ほとんどが人質生活か、幽閉生活であり、最後の華を、
「真田丸」
で咲かせたということになるのだ。
そんな時代というのは、基本的に、
「過去の歴史の教訓」
であったり、
「時代の流れによる、必然に起こってくる」
と言われることであったりするだろう。
それが歴史というものであり、勉強していると面白いところである。
特に、10年くらい前から、
「歴女」
なるものが叫ばれるようになり、
「女性も歴史が好きな人が増えてきた」
というものだった。
「歴史というと、どうしても、女性は敬遠する」
と言われる。
「暗記モノだ」
と言われるゆえんがあるからだろうか。
それでも、ゆずはの父親は、歴史が好きではなかったようだ。だが、父親は、現在の歴史や経済に関しては興味があるようで、中学、高校時代の娘に対して、
「新聞やニュースを見なさい」
と言い続けていたのだ、
見ていると、人世代違う、まるで、
「昭和の親父そのもの」
だといえるだろう。
昭和の時代というと、テレビは国営放送、番組はニュース。そして、新聞は、朝刊、夕刊を読むのは当たり前、
「今世の中で何が起こっているかということを知るのは当たり前、新聞くらい読んでいないと、まわりの会話から取り残される」
というのが、当たり前というようであった。
そして、もう一つは、
「新聞などには、生き方というものが分かるように書かれている」
とずっと言ってきていた。
最初は、
「そうなんだ」
と感じたが、それを読み取ることがどうしてもできなかった。
それを、
「まだ、私が高校生で、まだまだ子供だから、分からないんだろうな」
と思っていた。
しかし、高校時代から、大学生、社会人になっても、新聞を見て、
「そこに、人生を生きるためのノウハウのようなものが書かれているとは、どうしても感じることができない」
ということであった。
ここまでくるとさすがに、
「あの父親が言っていることにムリがあるんじゃないだろうか?」
と考えていた。
考えてみれば、そうではないか?
新聞に、生き方が書いているのであれば、もっと、皆新聞を真剣に見るだろう。実際に見ているのは、
「営業の仕事で、今何が起こっているのか知らないと、仕事にならないから、仕方ないけど見ている」
という人だけだったのだ。
実際に、営業に出ても、最近は、新聞を見ていなければいけないような話題に入ることはない。逆にそんな話題を出そうものなら、
「そんな堅苦しいこと言われてもな」
ということで、煙たがられるのがオチだったりする。
下手をすれば、
「営業を変えてくれ」
と言われないとも限らないだろう。
それを思うと、
「下手に新聞など見てもしょうがない」
と思うのだ。
正直、知っておかなければいけないニュースであれば、テレビなどを見れば一目瞭然、朝の慌ただしい時間でも、着替えや、食事をしながらでも見ることができるテレビニュースの方が、
「需要がある」
というものであろう。
「何かをしながら見ることができるニュース番組があるのに、いまさら、新聞に眼を通さなければいけない」
と思うのだった。
しかも、新聞というのは、かさばるのだ。毎日届くわけで、それだけ、読んだ後は、
「ただの紙屑でしかないのだ」
ということである。
父親は束ねて、どこかに車で持って行って処分をしているようだが、今の時代になると、「新聞なんて、必要ない」
ということになる。
何せ、新聞というのは、正直必要がない。なぜなら、
「ネット」
というものの、サービス会社のトップページは、その日の話題ニュース、それこそ、一面となるものがあり、さらに、ページ形式で、ジャンルごとにも別れている。
「政治や経済から、スポーツ、エンタメまで」
ちゃんと別れていて、新聞のように、読むことができる。
もちろん、新聞社による、
「ネット配信版」
ということで、途中までは無料で見れるが、途中からは有料というような記事もあったりする。
そして、紙媒体のように、かさばることもなく、ゴミになることもない。
しかも、以前は、パソコンでしか見れなかったのだが、今では、スマホの普及で、スマホで見るようになる。
しかも、紙媒体の新聞だったら、ルーペなどでも使わないと、文字の大きさを代えることができない。
だが、スマホであれば、それが可能となり、新聞の文字を拡大して見れることで、
「実に見やすくなった」
ということになる。
ただ、一番大きいのは、
「新聞を読むということは、まわりからの押し付けである」
と言えるだろう。
作品名:誰が一番得をするか? 作家名:森本晃次