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 という発想を抱いていたということまで思い出したというのは、奇跡のような気がしたが、逆に考えてみれば、それを思い出さなかったという方が、却って別の意味での奇跡のような気がするのであった。
「夢というものがどういうものなのか?」
 今でも分からない。
「いや、永遠に分からないものなのかも知れない」
 と感じているが、
「ほとんど、ゴール近くまで見えているのかも知れない」
 とも思うのだ。
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 という言葉があるが、これは、
「逆も真なり」
 ではないかとも思うのだ。
 つまり、
「まだまだ道半ばだと思っていることでも、気が付けば寸前まで来ていたということであり、こちらの方が可能性は高い気がする」
 というのは、
「可能性が高いからこそ、そんな分かり切ったことを、いちいち確認することはないのではないか?」
 ということであり、
「そんなによくあることではないだけに、確認の必要がある」
 ということで、ことわざとして、戒める必要があるのではないかともいえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「夢というものだけが、反対の反対だ」
 という発想になるのは、少し矛盾があるような気がする。
 もし、そうだとするならば、
「世の中にある矛盾すると考えられるものを、すべて、夢のせいだということで片付けてしまおう」
 ということになるのではないか?
 そんな理屈を考えようとするから、
「夢というのは、覚えていないものが、大半なんだ」
 と思えてならないのだろう。
 では、
「夢以外で、反対の反対を考えられるだろうか?」
 ということを考えると、そこに出てきたのが、
「合わせ鏡」
 と、
「マトリョシカ人形」
 というものだった。
「合わせ鏡というのは、自分の前と後ろ、または、左右にそれぞれ鏡を置いた時に見える現象。あるいは、感覚だ」
 ということである。
 合わせ鏡をすることによって、前の鏡に写った姿が、後ろの鏡に写っているかのように、また前の鏡に見えている。
 つまりは、見えている自分がどんどん小さく成っていくのだが、それは、
「決して消えることのない無限なのだ」
 ということであった。
 また、
「マトリョシカ人形というのは、ロシアの民芸品で、人形が蓋のついた上下で別れるようになっていて、その二つを外すと、その中に、また別の人形が入っている。そして、その人形も、同じ構造になっているので、同じように分離すると、また中に、人形が入っている」
 という仕掛けになっている。
 これも、永遠に小さく成っていくとも考えられるが、さすがに人形なので、限りはあろうだろう、
 しかし、理屈は合わせ鏡と同じなのだ。
 つまりは、どんどん小さくなってはいくが、
「消えてなくなる、つまりゼロになる」
 ということは絶対にありえないのだ。
 それは、
「限りなくゼロに近い」
 ということになるのであって、果てしなさは、
「ゼロになることはない」
 ということの同意語のように思えるのだった。
 そのことを考えると、
「世の中において、ゼロという感覚が、摩訶不思議なものであり、まるで、夢の世界のことのようにも感じられる」
 ということでもあった。
 そんな中において、
「夢の話」
 あるいは、
「時系列」
 というものが、
「反対の反対」
 という発想で考えた時。
「まったく正反対ではないとすれば、この世に、まったくの正反対などありえるわけはない」
 と考えてしまうのではないだろうか?
 ゆずはは。そんな夢のようなものを研究したいと思い、文系ではなく、理系の方に進むことにした。
 大学では、理工学部に所属して、いろいろ研究に没頭することになるのだが、大学の一年生の頃は、一般教養ということで、専門的なことは、
「2年生になってから」
 ということであった。
 一般教養なので、文系の授業も普通にあったのだが、そんな中で、心理学の講義もあったのだ。
 心理学というものに、さほど興味があったわけではない。
 どちらかというと、
「科学的なことであるのに、どうして、文系なんだろうか?」
 という不思議な感覚に見舞われた感覚だったのだ。
 大学の講義だったので、それほど、
「好きでも嫌いでもない」
 ということで、正直、
「単位として取得しなければいけないもの」
 というだけの意識で、講義も真面目に聞くという意識はなかった。
 実際に、その講義は、
「私の講義は、あまり面白くないので、興味のない人は、ただ黙って、後ろの方にいなさい」
 と教授はいうだけだった。
 しかし、出席を取る講義で、その出席率が、テストなんかよりも、結構大きなものだったので、毎回教室は満員の盛況だったのだ。
 それを思うと。
「この教授もあざとい人だ」
 としか思えない。
「言っていることと、やっていることが正反対だ」
 と、苛立ちを覚えるが、
「実は、それも教授の計算か?」
 と考えると、
「見事にやられた」
 という感が否めないのだった。
「意外と心理学って面白い」
 と感じさせられたからだった。
 だが実際に聞いてみると、講義は結構面白い。特にドラマやアニメなどの話をテーマにするから、分かりやすい。
「マンガやドラマというのは、結構テーマというのは、心理学が絡んでいることが多いからね」
 と言って、先生は笑っている。
 心理学というと、どうしても敬遠しがちだったのは、
「心理学というものが、哲学に絡んでくる」
 と考えたからだ。
 その哲学というのが、今度は宗教に絡んでいると思うと、
「宗教は、とても、扱いきれない」
 と感じ、宗教の歴史を考えると、勉強する気にはなれなかったのだ。
「宗教の歴史」
 というと、
「戦争の歴史だ」
 と思えてくるのだった。
 古代から、宗教が絡んでいる戦争がどれほどあったか?
 最たる例が、
「十字軍」
 と呼ばれるものではなかったか。
 しょせんは、宗教戦争でしかないものを、まるで、
「聖戦」
 であるかのようにしてあおる。
 それぞれの宗教が派遣を争っての戦争に、
「何が、聖戦と言えるというのか?」
 ということである。
 宗教戦争がもたらしたものは、その隣りあわせには、
「死」
 というものが付きまとう。
 考えてみれば、ここ数十年の戦争は、そのほとんどに、宗教が絡んでいるではないか?
 そもそも、中東における、
「パレスチナとイスラエルの戦争」
 というのは、
「ユダヤ教とイスラム教」
 という意味で、
「現代の十字軍だ」
 といってもいいだろう。
 その戦争では、テロ戦争が多い。まるで、東南アジアにおける、独立戦争のようだ。
 ベトナム戦争がそのいい例だが、アフガンにおいても、
「自分たちの土地を荒らすものは、何であっても、敵でしかない」
 ということになる。
 そもそも。パレスチナと、イスラエルの戦争というのは、ヨーロッパのイギリスによる、
「世界大戦での、アラブ、ユダヤの協力を得るために行った、二枚舌外交が、その引き金だった」
 というのも、第一次大戦においては。
「ロレンス」
 という男が、アラブの開放を謳い、自分たちhwの、
「軍事協力」
 を促したのだ。
作品名:誰が一番得をするか? 作家名:森本晃次