バタフライの三すくみ
そんなことを考えると、
「高校と一言で言っても、学校のレベルが、ピンからキリまでということになるのだろう」
ということであった。
高校の中には、入学試験で、
「自分の名前さえ書ければ、入学できる」
というような学校もあるという。
停学処分はあるが、、
「学業や、成績が悪いからといって、停学になるということはなく、退学というのも、基本的に、学校から辞めさせるということはない」
というような。まるで夢のような学校があった。
しかし、そんな学校なので、どんな生徒が集まってくるか?
ということである。
とんでもない生徒が入学してきて、
「まるで治安のない。無法地帯のような学校になった時期があった」
というのである。
だが、彼は運が良かったのか、考え方がしっかりしていたからなのか、他の生徒からも、一目置かれていたようだった。
先生からも、
「彼は信頼できる」
と言われていたようで、一触即発に近かった学校でも、普通に乗りこえられたという。
彼は、どこの団体にも関わろうとしない。
それが最高のやり方で、様子見をしたり、ちょっとした助言くらいはしただろうが、だからといって、そこに与するということはなかった。
それを、皆が分かっていたということが、彼にとって幸運だったのだろうが、それだけ、「人間ができている」
といっても過言ではないだろう。
そんな彼とは、今でも交流があった。
そもそも、スポーツ推薦で何とか、とりあえずプロ野球選手にまではなれたが、それが、
「成功だったのか?」
と言われると、そこは難しいところである。
友だちは、霧島が、プロ野球に入った感じたことを、高校時代に感じていたのだ。
こうやって文章にすれば、そこまで感情が入ってこないが、実際には、その間の気持ちの上での、
「紆余曲折」
というのは、かなりのものだったことであろう。
高校時代というと、思春期が終わっての多感な時代だった。その三年間を乗り切ると、彼は、無理のない大学に進学したのだが、それでも、一流大学として十分に知られているところであった。
大学時代には、部活をしていたわけではない。アルバイトをして。必要なお金は自分で稼いでいた。
そして、そのお金で、結構海外旅行をしたというのだ。
「大学生活の中で、半分近くは、海外に行っていたな」
ということであった。
留学してもよかったのだが、一か所に留まるよりも、世界各国を探しまわる方がいいということで、結構、いくつもの国にいったものだった。
極端な話。
「授業に出なくても、ノートなど人から借りて、毎年の試験の傾向と対策だけで、単位は普通に取れる」
と言っていたが、まさにその通りで、三年生くらいまでに、ほとんどの単位は修得していた。
成績は、目立つものではなかったが、面接で、
「海外を飛び回っていた」
ということをいうと、面接官はほとんど目を輝かせて、質問をしてくる。
しかも、その質問が、まるで判で押したように、皆似たり寄ったりの質問なので、
「一つ模範解答を用意しておけば、それだけでいい」
ということであったのだ。
そんなこんなで、彼は、金融関係の会社に就職した。
他にもいくつもの一流企業から、内定をもらっていたが、
「俺は金融関係にいく」
ということだった。
理由を聞いてみると、
「俺は将来、起業したいと思っているんだ。そのために、金融の勉強をしておきたいと思ってな」
というではないか。
他の連中が、社会人になるだけで、大変な思いをしているというのに、彼は、さらに先を見ているようだった。
ちなみに、高校時代の秀才連中は、まさに、
「末は博士か大臣か?」
と言われていたように、
「大学院に進んで、研究の道」
を歩んでいたり、
「国家試験に合格し、弁護士などの司法の道や、政治家や官僚を目指している」
というような連中ばかりであった。
高校時代に、
「治安が悪い」
と言ったが、暴力が蔓延っているというわけではなく、優等生同士の派閥の問題などがあり、そこに、その家が抱えている、
「暴力団」
のような組織が暗躍しているのが分かるからで、実際には何もなく、ただの一触即発だったというわけだ。
彼らも、
「手を出した方が負け」
ということは重々分かっていたので、にらみ合いという、そう、戦後の政治体制にあったような、
「東西冷戦」
ということだったのだ。
まるで、
「マイナスにマイナスを掛け合わせると、プラスになる」
という発想を思い起こさせるのだ。
もっというと、
暴力団の内部抗争のようなものが、混ぜ合わさった時、警察の公安などは、たまにであるが、
「相手が、潰し合いをしてくれているのを待っているのではないか?」
と感じることもあった。
そもそも、三すくみでもない限り、三つの頂点があった時、
「相手が潰し合ってくれるのが一番ありがたい」
と思うだろう。
どうして、
「三すくみがまずい」
というのかというと、
「三すくみというのは、それぞれで潰し合うことで、力の均衡を守っているといってもいい」
のである。
つまりは、
「ヘビは、カエルを丸呑みする、カエルは、ナメクジを食べる、ナメクジは、ヘビを溶かしてしまう」
という関係である。
要するに、
「一方向から、グルリと回る関係が、永遠に続く」
と言えばいいのか、まるで、
「負のスパイラル」
が形成されているということである。
一方向からずっと、流れていき、結果、それが終わらないということであれば、
「平面であれば、この理屈は成り立たない」
ということになる。
まるで、
「メビウスの輪」
のような関係だといってもいいだろう。
「メビウスの輪」
というのは、
「短冊のような紙テープの切れ端のようなものを、丸くしてそれぞれの両端を結ぶ形になるのだが、その時、途中を一回転させるように、錐もみさせるような形で、結ぶのだが、その時、短冊の中心から、なぞるように、紙に平行するように鉛筆で描いていくと、錐もみが掛かっているのだから、上下逆さまということになり、線は永遠に表裏のままで、交わることはない」
という考えなのだが、それが、交わる形として出来上がるものがあるというのが、
「メビウスの輪」
というものであった。
そのメビウスの輪と同じように、
「一方向から、ずっと円を描いていくと、果てることなく永遠に力関係が途切れることがないはずなのに、見えている縁の大きさは同じだ」
ということである。
普通であれば、このような関係の例としては、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョシカ人形」
のように、
「永遠に続いていくものだ」
ということになると、最終的には、どんどん小さくなっていき、結局それでも、ゼロになることはない。それが、
「限りなくゼロに近い」
というものであり、これも、
「メビウスの輪」
と同じに感じられるのだ。
しかし、三すくみの場合は、平面で見ているから分からないのだが、これを立体として、
「まるで、螺旋階段のようだ」
と考えれば、発想として思い浮ぶのが、
「負のスパイラル」
という発想なのだ。
作品名:バタフライの三すくみ 作家名:森本晃次