裏表の日本
「一生懸命にやっても、同じ給料であれば、頑張るだけバカバカしい」
と言えるだろう。
さらには、
「すべてが国営となり、競争がなくなると、新製品開発が進まず、それでもやらせようとすると、国家権力による抑圧が憚るということになる」
と言える。
そうなると、社会主義というのは、自由競争で生まれる、
「切磋琢磨が生まれることはなく、要領のいいものが楽をできるということであろうか?」
と考えると、
「社会主義にも、結局、限界というものがあり、それは、民主主義よりも、ひどい結果をもたらす」
ということになる。
社会主義のように、国家が強いと、政府が国家を動かすということで、国家や政府に絶対的な独裁状態になるということでもある。
だから、ソ連のスターリンや、中華人民共和国の毛沢東のような、数百万という人民を、
「粛清する」
ということになるのだ。
「いうことを聞かない連中を、暗殺する」
というようなもので、粛清によって、国力が落ちるということも実際にはあったりする。
ソ連分が、一時期弱かったのは、それまでにスターリンが、
「めっちゃやたらに、粛清したからだ」
と言われるのだった。
そんな、国家において、粛清というのは、やはり、
「国家体制が、独裁国家になっている」
ということであろうか。
「社会主義国は、どうしても、政府が独裁であるために、どうしても、国家元首が狙われているという錯覚に陥る」
つまりは、粛清しなければ、国家元首の疑心暗鬼が消えず、どうすることもできないというわけだ。
そういえば、以前に読んだ本で、面白い話があった。
それは、ミステリーのようでも、SFのようでも、ホラーのようでもあった。
ミステリーとしては、最初に出てきたのが、
「政治体制」
の話からだった。
政治体制としては、いくつかの政治体制が、まるで、
「バトルロイヤル」
をしているような感じで、その体制は、まるで、二十世紀前半の、
「世界大戦」
の時代を描いているかのようだった。
時代関係なく存在しているのが、
「民主主義」であった。
そこに、全体主義ともいうべき、
「ファシスト主義」
と言われる、独裁主義の雰囲気があり、イタリアのように、
「かつての、ローマ帝国の華やかさを取り戻そう」
という思想、
あるいは、ナチスドイツのように、
「ドイツ民族のみが、世界の支配者たるべき」
という、極端な民族主義であったりする。
日本もどちらかというと、
「ナチスドイツ」
に近かったかも知れない。
満州国建国のスローガンとして、
「五族共和」
というようなスローガンがあった。
「満州人、漢民族、モンゴル民族、朝鮮人、そして日本人」
による、五つの民族による、
「共和」
ということである。
しかし、実際の満州国は、あくまでも、優秀なのは、日本人であり、他の民族は、日本人に仕えるという考えである。
しかし、それを表に出してしまうと、
「大東亜戦争」
のスローガンが壊れてしまう。
「東アジアから、欧米列強を負い出して、アジアに、巨大な大東亜による共栄圏を獲得する」
というのが、
「大東亜戦争」
の建前だ。
そそもそ、
「太平洋戦争」
という呼称もおかしい。
戦争は太平洋だけでなく、インドシナ、マレー、インドネシア、インド、ビルマ、タイ、カンボジアなどの東アジアであったり、何といっても、中国があるではないか?
極東国際軍事裁判において、その範囲を、
「満州事変建国のあたりにさかのぼって」
ということであるがら、1931年くらいから、1945までの15年、つまり、
「15年戦争」
と言われるあたりからであれば、満州も、戦場となるだろう。
そうなると、言えるとすれば、ハワイや、アリューシャン列島まで、戦線が拡大していることを考えると、
「環太平洋戦争」
といってもいいのではないだろうか?
でなければ、せめて、
「アジア太平洋戦争」
というべきであり、アメリカなどの、連合国の主張も、どこか辻褄が合っていない。
要するに、連合国は、
「ドイツや日本を悪者にして、本当の元になった事情を、隠し通そうとしているのだろう」
要するに、
「勝てば官軍」
なのである。
理想としている、
「民主主義」
という観念は立派なものであるが、実際に起こっていることとしては、
「ファシズム」
のようなものであり、その国も戦争に突入すると、国民に自由はなく、君主のために、
「死も辞さない」
ということであった。
日本の場合には、
「天皇」
という絶対的な存在があったが、その国には、大総統などものがいたのだ。
大統領よりも、数段権力は上であり、しかも、戦時であれば、その支配力は絶対だった。
日本においても、
「宣戦布告の詔」
というものの内容としては、まず、定型文のようなものがあり、その後で、国民や軍は、戦争完遂のために、最大の努力をするようなことを、国民に向けて書かれている。
この場合は、国民という言葉を使わずに、
「臣民」
という言葉を使っている。
「臣民」
というのは、
「普段は、国民として、憲法で守られた自由が保障されているが、戦争や災害などの、有事の際は、ある程度、自由が制限され、目的完遂のために、身を犠牲にするという場合の民のことをいうのだ」
ということであった。
つまり、立憲君主国というのは、
「普段は民主主義なのだが、有事となると、ある程度の自由が制限される」
たとえば、
「言論の自由」
「信仰の自由」
などがそうであろう。
「情報統制や、宗教団体に対しての弾圧のようなものがあっても仕方がない」
ということだ。
「戦争というのは、国家臣民が一丸とならないと、相手には勝てない」
ということであった。
元来、志願制であった
「軍への入隊」
というのも、
「戦争が厳しくなると、それまでは、免除されていた。大学生なども、強制入隊という形いなり、学徒出陣などということになるのだった」
さらに、戦局が悪くなり、追い詰められてくると、本来なら、
「降伏」
そればいいところを、徹底抗戦ということになると、今度は、
「命を軽んじる」
ということになる。
「カミカゼ特攻隊」
であったり、
「人間魚雷回天」
などというものであったり、
「戦陣訓」
にあるように、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
という言葉に沿うと、結果として出てくるのが、居留民をも巻き込んだ、
「全員死亡」
を前提とした、
「玉砕戦法」
であった。
国家として、どのように当たればいいのか?
実は情報統制と、
「天皇大権」
というものにより、国民に、戦争状況は正しく伝わっていない。
特にひどいのは、
「天皇大権」
という問題があったことが、戦争を泥沼に嵌めてしまったのだ。
「天皇大権」
というのは、大日本帝国憲法の、
「天皇」
の項の中にあるもので、
「統帥権」
と呼ばれるものだ。
そこには、
「天皇は、陸海軍を統帥す」
と書かれている。
つまり、
「天皇は、軍隊の長」
ということである。
もっといえば、