小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

裏表の日本

INDEX|6ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

「一生懸命にやっても、同じ給料であれば、頑張るだけバカバカしい」
 と言えるだろう。
 さらには、
「すべてが国営となり、競争がなくなると、新製品開発が進まず、それでもやらせようとすると、国家権力による抑圧が憚るということになる」
 と言える。
 そうなると、社会主義というのは、自由競争で生まれる、
「切磋琢磨が生まれることはなく、要領のいいものが楽をできるということであろうか?」
 と考えると、
「社会主義にも、結局、限界というものがあり、それは、民主主義よりも、ひどい結果をもたらす」
 ということになる。
 社会主義のように、国家が強いと、政府が国家を動かすということで、国家や政府に絶対的な独裁状態になるということでもある。
 だから、ソ連のスターリンや、中華人民共和国の毛沢東のような、数百万という人民を、
「粛清する」
 ということになるのだ。
「いうことを聞かない連中を、暗殺する」
 というようなもので、粛清によって、国力が落ちるということも実際にはあったりする。
 ソ連分が、一時期弱かったのは、それまでにスターリンが、
「めっちゃやたらに、粛清したからだ」
 と言われるのだった。
 そんな、国家において、粛清というのは、やはり、
「国家体制が、独裁国家になっている」
 ということであろうか。
「社会主義国は、どうしても、政府が独裁であるために、どうしても、国家元首が狙われているという錯覚に陥る」
 つまりは、粛清しなければ、国家元首の疑心暗鬼が消えず、どうすることもできないというわけだ。
 そういえば、以前に読んだ本で、面白い話があった。
 それは、ミステリーのようでも、SFのようでも、ホラーのようでもあった。
 ミステリーとしては、最初に出てきたのが、
「政治体制」
 の話からだった。
 政治体制としては、いくつかの政治体制が、まるで、
「バトルロイヤル」
 をしているような感じで、その体制は、まるで、二十世紀前半の、
「世界大戦」
 の時代を描いているかのようだった。
 時代関係なく存在しているのが、
「民主主義」であった。
 そこに、全体主義ともいうべき、
「ファシスト主義」
 と言われる、独裁主義の雰囲気があり、イタリアのように、
「かつての、ローマ帝国の華やかさを取り戻そう」
 という思想、
 あるいは、ナチスドイツのように、
「ドイツ民族のみが、世界の支配者たるべき」
 という、極端な民族主義であったりする。
 日本もどちらかというと、
「ナチスドイツ」
 に近かったかも知れない。
 満州国建国のスローガンとして、
「五族共和」
 というようなスローガンがあった。
「満州人、漢民族、モンゴル民族、朝鮮人、そして日本人」
 による、五つの民族による、
「共和」
 ということである。
 しかし、実際の満州国は、あくまでも、優秀なのは、日本人であり、他の民族は、日本人に仕えるという考えである。
 しかし、それを表に出してしまうと、
「大東亜戦争」
 のスローガンが壊れてしまう。
「東アジアから、欧米列強を負い出して、アジアに、巨大な大東亜による共栄圏を獲得する」
 というのが、
「大東亜戦争」
 の建前だ。
 そそもそ、
「太平洋戦争」
 という呼称もおかしい。
 戦争は太平洋だけでなく、インドシナ、マレー、インドネシア、インド、ビルマ、タイ、カンボジアなどの東アジアであったり、何といっても、中国があるではないか?
 極東国際軍事裁判において、その範囲を、
「満州事変建国のあたりにさかのぼって」
 ということであるがら、1931年くらいから、1945までの15年、つまり、
「15年戦争」
 と言われるあたりからであれば、満州も、戦場となるだろう。
 そうなると、言えるとすれば、ハワイや、アリューシャン列島まで、戦線が拡大していることを考えると、
「環太平洋戦争」
 といってもいいのではないだろうか?
 でなければ、せめて、
「アジア太平洋戦争」
 というべきであり、アメリカなどの、連合国の主張も、どこか辻褄が合っていない。
 要するに、連合国は、
「ドイツや日本を悪者にして、本当の元になった事情を、隠し通そうとしているのだろう」
 要するに、
「勝てば官軍」
 なのである。
 理想としている、
「民主主義」
 という観念は立派なものであるが、実際に起こっていることとしては、
「ファシズム」
 のようなものであり、その国も戦争に突入すると、国民に自由はなく、君主のために、
「死も辞さない」
 ということであった。
 日本の場合には、
「天皇」
 という絶対的な存在があったが、その国には、大総統などものがいたのだ。
 大統領よりも、数段権力は上であり、しかも、戦時であれば、その支配力は絶対だった。
 日本においても、
「宣戦布告の詔」
 というものの内容としては、まず、定型文のようなものがあり、その後で、国民や軍は、戦争完遂のために、最大の努力をするようなことを、国民に向けて書かれている。
 この場合は、国民という言葉を使わずに、
「臣民」
 という言葉を使っている。
「臣民」
 というのは、
「普段は、国民として、憲法で守られた自由が保障されているが、戦争や災害などの、有事の際は、ある程度、自由が制限され、目的完遂のために、身を犠牲にするという場合の民のことをいうのだ」
 ということであった。
 つまり、立憲君主国というのは、
「普段は民主主義なのだが、有事となると、ある程度の自由が制限される」
 たとえば、
「言論の自由」
「信仰の自由」
 などがそうであろう。
「情報統制や、宗教団体に対しての弾圧のようなものがあっても仕方がない」
 ということだ。
「戦争というのは、国家臣民が一丸とならないと、相手には勝てない」 
 ということであった。
 元来、志願制であった
「軍への入隊」
 というのも、
「戦争が厳しくなると、それまでは、免除されていた。大学生なども、強制入隊という形いなり、学徒出陣などということになるのだった」
 さらに、戦局が悪くなり、追い詰められてくると、本来なら、
「降伏」
 そればいいところを、徹底抗戦ということになると、今度は、
「命を軽んじる」
 ということになる。
「カミカゼ特攻隊」
 であったり、
「人間魚雷回天」
 などというものであったり、
「戦陣訓」
 にあるように、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
 という言葉に沿うと、結果として出てくるのが、居留民をも巻き込んだ、
「全員死亡」
 を前提とした、
「玉砕戦法」
 であった。
 国家として、どのように当たればいいのか?
 実は情報統制と、
「天皇大権」
 というものにより、国民に、戦争状況は正しく伝わっていない。
 特にひどいのは、
「天皇大権」
 という問題があったことが、戦争を泥沼に嵌めてしまったのだ。
「天皇大権」
 というのは、大日本帝国憲法の、
「天皇」
 の項の中にあるもので、
「統帥権」
 と呼ばれるものだ。
 そこには、
「天皇は、陸海軍を統帥す」
 と書かれている。
 つまり、
「天皇は、軍隊の長」
 ということである。
 もっといえば、
作品名:裏表の日本 作家名:森本晃次