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裏表の日本

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 だから、もし、へまをして敵につかまったりすれば、
「我々は擁護はしないが、我々の存在さえ言わなければ、国家は見捨てても構わない」
 とまで言われている。
 それだけ、
「政府が崩壊しても、我々がいれば、日本という国は何とかなる」
 ということであった。
 本来なら、こんな組織は、自分中心主義の恐ろしい、
「カルト集団だ」
 と思われるということであろうが、そんな集団でも、こっちの世界では、少なくとも、日本国の政府よりも、数倍信頼されている。
 だから、彼らの組織は、国連でも承認されていて、その存在すら知らない日本政府は、今では、完全な、
「お飾りにしかなっていない」
 だから、国連は日本政府を煽てて、バカな首相が、それに乗せられて、金だけポンポンと、戦争をしている片方の国に垂れ流すというような、おかしな構図となっているのだった。
 そんな政府が、いかにひどいのかを知らない世間も、何とも、
「お花畑思想」
 だった。
 ただ、一つ言えることは、どちらの世界の政府であっても、しょせん、
「日本政府はバカの集まりだ」
 ということだった。
 ただ、パラレルワールドの世界では、秘密結社があるおかげで、まだ何とか国家としての体制が保てていて、同じ、
「アメリカの属国状態」
 であっても、まだ何とかなっているという感覚であろうか?
 冷戦時代は、まだ何とかアメリカの属国としても、さほど変わりなく推移していたが、冷戦が終わり、
「日本の立場が微妙になってくるにつれて、その間にある両国の関係は、少しずつ変わってくる」
 といっても過言ではないだろう。
 というのは、
「日本という国においては、それまで、アメリカの核兵器の傘に入っていた」
 ということであるが、パラレルワールドの世界では、ソ連崩壊のあたりから、その構図が外れかけていた。
 アメリカだけが、いち早く、
「ソ連崩壊」
 ということを察知していて、そのうちに、同盟国にも、その情報が水面下で流されていた。
 しかし、なぜか、同盟国よりも先に知っているべきはずの日本には、知らされていなかったのだ。
 それは、アメリカとすれば、
「大東亜戦争前夜の、大統領の気分のようだ」
 ということを言った。
 以前、別の大統領が、
「真珠湾攻撃を決意した、東条首相の心境だ」
 と言っていたようだが、その心境に近いのかも知れない。
 あくまでも、
「ソ連崩壊」
 というのは、理論的には十分にありえることだが、
「それを信じ込んでしまうと本当に、怪しい」
 といえるのだ。
 そんなソ連の崩壊を、
「信じてはいるが、最後まで信じられない」
 と思っているのは、
「石橋を叩いて渡る」
 という心境からだろうか?
 そんな日本の国も、ソ連は崩壊すると、いつの間にやら、
「アメリカの格の傘」
 から、少しずつ離れていった。
 どちらかというと、
「アメリカの盾にされている」
 という印象が深い。
 それは、あくまでも、日本の出方次第という条件つきになるのだが、基本的には、
「日本はアメリカの属国」
 に変わりはない。
 しかし、片方の世界では、
「日本という国は、どこまで行っても、アメリカが守ってくれる」
 という世界線があった。
 しかし、それだけに、アメリカとは一蓮托生で、アメリカが窮地に陥れば、まず崩壊するのは日本だった。
 ただ、そうなってしまうには、第三次世界大戦などの、
「未曽有の危機」
 というものが訪れることであり、少々の、世界の小競り合いであったり、諸国の内乱くらいでは、そんな、
「世界を揺るがす」
 ようなことにはならないだろう。
「ソ連の崩壊」
 が、世界線を揺るがしているなど。誰が知っているのだろうか?
 しかも、その世界線を揺るがしているのは、どっちなのだろうか?
「こちらの世界が、世界線を揺るがしているのだろうか?」
 それとも、今感じている、
「もう一つの世界」
 この世界が、揺るがしているというのだろうか?
 そんなことを考えていると、
「一体、パラレルワールドって、どれだけあるのだろうか?」
 ということであった。
「無限に存在するのが、パラレルワールド」
 というものの、理屈である。
 しかし、その無数というのは、あくまでも、
「有数に対しての、無数」
 ということであり、
「数として数えられなくなると、そこから無数であったり、無限という表現をするのではないだろうか?」
 ということになると、無数、無限という定義は、
「人によって、バラバラである」
 と言えるのではないだろうか?
 そうなると、また別の考えが生まれてくることがある。
 というのは、
「無限、無数」
 というのは、ある結界を越えたその先に存在するものであるが、実際には、一つしかないもので、無限といっているのは、増えないことによって、先があるという、ある意味、
「限りなく無限に近いもの」
 という発想ではないだろうか?
 それを考えると、
「限りなくゼロに近いもの」
 という発想と、どこか似ているのではないだろうか?
「限りなくゼロに近いもの」
 という発想は、
「マトリョーシカ人形」
 であったり、
「合わせ鏡」
 などの場合をいうのではないかと思っている。
 鏡を自分の左右に置いた場合、その鏡にそれぞれ映っているものは、
「無限に続いていく、もう一人の自分たち」
 という表現ができるような気がする。
 というもので、その先に見えるものは、
「どんどんと小さくなっていく、自分の姿であった」
 どんどん小さくなって、次第に見えなくなっていく。しかし、理論的には存在しているのだ。
「絶対にゼロにあることも、マイナスになるという考えもない」
 ということになる。
 それを考えると、そこから導き出される観点は、
「限りなくゼロに近い」
 というものの存在である。
 その考えを、先に見えるものを、どう考えるか?
 ということにもよるのではないだろうか?
 ロボット工学における、
「フレーム問題」
 というものを考えれば分かってくることもある。
 フレーム問題というものの、大前提として、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
 というものだ。
 次の瞬間の次には、また次の瞬間というものがある。
 そんなことを考えていると、
「次の瞬間」
 というものも、無限に存在していることになる。
 となると、
「無限×無限」
 という考え方が、時間というものを築いているとするならば、
「無限というものは、実は一つなのではないか?」
 という考えも出てくるのだ。
 つまり、
「本当の無限という考え方」
 と、
「無限というものは、実は一つの単位の総称にすぎないという、唯一無二」
 という発想とに分かれるのではないか?
 ということであった。
 そんな無限の可能性というものをいかに考えるかということであるが、それが、いかに難しいことであるかということも、果たして分かっているのか?
 ということであった。
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョーシカ人形」
 というものが、
「限りなくゼロに近い」
 というものを目指しているのであれば、それは、
「時間というものを逆行している」
作品名:裏表の日本 作家名:森本晃次