裏表の日本
という守備芸だったものが、次第に力をつけていき、平清盛のように、公家化していくものもあったが、平家というのは、海外との貿易に力を注いでいた。
福原の港を改良したのも、そのためであり、一時期とはいえ、その福原に遷都したというのも、そういう思惑があったからだろう。
平家は、一時の栄華を築いたが、結局、各地の反乱において、滅んでいった。
平家の失敗は、きっと、公家化したことで、各地の武士たちとの格差が激しくなあり、各地の武士は、朝廷のために働かされているのに、平家だけは、栄華を誇っているということに我慢ができなくなり、各地で、平家追討という機運が巻き起こり、最終的には滅亡することになった。
しかし、せっかく平家が諸外国との貿易こそが、繁栄だという状態にしていたのに、平家が滅んでしまい、鎌倉幕府の時代になると、
「土地を保証することで、主従関係が生まれる」
という、封建制度が確立されることになるのだ。
ただ、この考え方が、
「元寇」
の際に、裏目に出ることになるのだ。
というのは、
「元寇によって、日本は、侵略の危機を逃れることができた。しかし、問題は後だったのだ」
と言われる。
つまりは、
「この戦のために駆り出された兵士たちは、下手をすれば、借金をしてでも、奉公をしたのであるが、それに見合う恩賞がない」
ということであった。
戦で勝利すれば、その後に待っているのは、手柄を立てた人への、恩賞であり、そのために行われる、
「論功行賞」
である。
しかし、この時の元寇の場合は、
「一方的に外国から攻められ、それを撃退することが問題だったのだ」
ということである。
そうなると、日本の土地はすべて、誰かの土地となっているので、どこにも、褒美として与えるものがないのだ。
そう、
「戦によって奪い取った土地というものがない」
からである。
これがもし、少しでも、貿易などで挙げた利益があれば、それを褒美の代償とできるのだろうが、そういうものもない。
馳せ参じた御家人の中には、
「褒美を期待して、借金をしてまで、軍に加わった御家人もいる」
というではないか。
それなのに、褒美がないということであれば、
「幕府はもうダメだ」
ということになるだろう。
幕府は、最後の手段として。
「借金棒引き」
というような徳政令を出したが、そんなものは、焼け石に水だった。
結局、満を持した後醍醐天皇によって、鎌倉幕府は滅亡することになるのだが、ある意味、気の毒といえば気の毒だったであろう。
考えてみれば、その後、
「足利幕府」
「徳川幕府」
と、時代としては、長期政権ではあったが、実際には、
「名前だけの時代が長かった」
ということであり、さらには、
「ほとんどが財政難で火の車だった」
ということでもあったりした。
そういう意味で、
「元寇というものがなかったとすれば?」
という歴史のタブーである、
「IFというものは、想像が許されるのであれば、どんな時代を描くことになるのだろうか?」
これも面白い発想だといってもいいだろう。
しかし、戦国時代の末期、織田信長の登場によって、それまでの群雄割拠が、天下統一という状況に変わってきた。
織田信長という男は、それだけ時代を動かす力を持っていたということであろう。
明智光秀によっての、
「本能寺の変」
がなければ、これも、
「どんな時代になっていたのだろうか?」
ということを考えれば、実に興味深いところである。
その後の、秀吉、家康と、いわゆる、
「三英傑」
と呼ばれる人は、
「ほととぎす」
の狂歌で表されるが、
「実際に、この歌の通りというわけではない」
というのが、最近の歴史研究によるものである。
そういう意味で、この句を将来、
「教えなくなるのではないだろうか?」
と考える人も少なくはないだろう。
確かに、
「殺してしまえ」
と信長をいうが、それは、延暦寺焼き討ちなどの、
「皆殺し」
というイメージが強いからだろうが、主君として、歴史を勉強していれば、これらのことは当たり前のことである。もっとも、これは、
「歴い研究の現在」
ということで、考えられていることであるのだが。
特に坊主というのは、当時は、
「酒池肉林状態だった」
ということなので、そんな坊主が政治に口出ししたり、敵対勢力に味方をしたりすれば、やつらのこもるのは、
「寺ではなく、城だ」
ということになるのであれば、
「城を攻撃して何が悪い」
ということになるのだ。
しかも、皆殺しにするのは、
「禍根を残さない」
という意味で、皆殺しは必要なことだった。
特に、清盛と頼朝の因縁を思えば、それは当たり前のことである。
母親の命乞いに免じて島流しにした相手が、成長して、死後の一門を滅亡に追い込むというようなことになるのだから、それは、当たり前のことであろう。
だから、皆殺しにしたからといって、それは無理もないことだったのだ。
もっといえば、
「泣かせてみせよう」
という秀吉だって、実はかなり残酷なことをしている。
自分の息子の秀頼が、
「自分の子供ではない」
というような落書きをされた時、その犯人を捕まえるように言った部下が、捕まえることができなかったからと、全員を処刑してしまったり、
さらに、秀頼ができたことで、譲ってしまった関白の職を、自分の甥から取り戻すため、
「謀反の罪」
ということで、幽閉し、さらに無理矢理に切腹させてしまっている。
さらに、秀次の関係者も、もろともに処刑である。これを残虐でないといって、どうなのだろうか?
また、城攻めということでもそうである。
「信長などは、一気に包囲して、皆殺しという方法を取っているが、秀吉はどうだったのか?」
というと、いわゆる、
「水攻め」
「兵糧攻め」
などと、相手が弱ってくるのを待つ方法である。
これほど、ジリジリと相手を苦しめるという意味で、
「残虐性」
というものではないだろうか?
それを思うと、確かに秀吉が、自信家だったというのは別にして、
「信長が、秀吉や家康に比べて残虐だったのか?」
ということになると、ハッキリといって、何も言えなくなるのではないだろうか?
と言えるのだ。
そういうことになると、
「歴史で言われてきたことや、史実として残っていることというのは、正直、どこまで信用していいのか分からない」
ということである。
例えば、徳川時代になってから、豊臣家の遺構は、かなり跡形もなく壊されたということである。
当時の権力者は、自分の前の権力者を破壊したがる傾向にある。そうしないと、基本的に自分が滅ぼしたことで、こちらが天下を握ったのだから、影で、前の政権の復活を画策している連中に、利用されないとも限らないからだ。
新政権は、絶えず、
「自分たちが正しい」
ということを国民に示しておかなければいけない。
ということになるのだ。
だからこそ、過去の政権の遺産を残すことを怖がるというのも、当たり前のことなのである。