裏表の日本
「出来事をそれぞれのパターン化してしまい、それをAIに判断させればいいのでは?」
という発想が生まれた。
それはまるで、
「フレーム」
という枠に当てはめるような感じなので、
「フレーム問題」
という風に言われたのだ。
しかし、よく考えてみると、これは不可能なことなのだ。
そもそもが、無限なのだから、そこからいくらパターン化して分けたとしても、結果は無限でしかない。
これは、数学の考え方でもそうではないか。
「無限からいくら割ったとしても、答えは、無限でしかない」
というわけである。
それこそ、
「マトリョシカ人形」
あるいは、
「合わせ鏡」
のようなものではないか?
ということになるのである。
マトリョシカも、合わせ鏡も、同じように、どんどん小さくはなっていくが、こちらも、ゼロになることはない、そこで出てくるのは、
「限りなくゼロに近いもの」
ということであり、
どんどん大きくなるものは、無限に行き着くが、どんどん小さくなっていくものは、決してゼロになることはなく、出てくるのが、
「限りなくゼロに近い」
という発想である。
このフレーム問題も、逆の発想から、
「限りなくゼロに近いもの」
というものを考えた時、
「この二つを考え合わせれば、
「ひょっとすると、フレーム問題を解決に導くことができるかも知れない」
と思っている人がいる。
実は、クロカワのいる、この世界だからできる発想であり、元々の世界では、発想としてはありえないということであった。
実はこの世界とクロカワの住んでいる世界とでは、この一点が違うのだ。
この違いがあることから、
「ちょっとした違いが、無限の距離を生んでいる。その無限の距離があることで、お互いに見ることができない世界」
といえるだろう。
しかし、その世界を、誰もが知っている世界だったりする。
そう、クロカワのいるこの世界は、
「そんな夢の世界」
だったのだ。
この世界を皆夢の世界と呼び、
「決して自分の意識としてしか存在していない世界だ」
と思っているのだが、果たしてそうなのだろうか?
夢の世界というのは、ある意味、自分たちの発想からかけ離れていることで、眠っているという瞬間でしか理解できていないので、夢というのは、
「眠っている時にしか見ることのできないものだ」
といえるだろう。
だから、こっちの世界で常識、当たり前のことだとして考えられていることは、ことごとく違うものに感じるということだ。
夢の中というのは、まず、
「時間の感覚」
というものが曖昧だったりする。
「時系列の順番」
そして、
「子供の頃のことをあっという間に見てしまう」
という感覚。
特に、
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒間で見る」
と言われている。
それを、人間が持っている、潜在意識というものが、自分の眠っている時の意識と結びつくことで、
「自分の意識の中にあるものであれば、すべて、意識していることを、不思議な夢の世界に、誘うことができるのではないか?」
と考えることであった。
そんなことを考えていると、
「フレーム問題」
というものを人間が意識せずに解消できているのは、
「夢の世界を知っているからであろう」
ということだ。
動物にしても、
「本能からではないか?」
と思っていたが、この夢という説もあながちあり得ることだと思った。
「動物も夢を見る」
と言われているので、まさにその通りなのだろう。
クルカワは、友達に小説家がいて、その人の小説をよく読んでいた。
その人はSF作家で、もちろん、クロカワはもちろん、その作家も、
「自分が書いている小説は、フィクションだ」
と信じて疑わないし、その通りであった。
しかし、それはあくまでも、
「知らないで書いている」
ということであり、その話がまったくのフィクションではないということを知る由もなかった。
というのは、その友達の小説で、パラレルワールドが描かれていて、自分たちと同じ人間が存在しているという話であった。
しかも、その国は、
「自分たちと同じで、平和憲法を盾に、諸外国とは戦争をせずに、その代わり、守ってくれる国がある」
という設定まで同じだった。
だが、その国は、他の国から狙われているわけではなく、
「狙われているかのような、世界で生きている」
ということであった。
その国は、
「過去にも侵略されそうになっていて、実際に、他国から攻められたこともあったが、偶然なのか必然なのか、自然現象が助けてくれた」
という国であった。
だから、その国は、かの戦争でも、
「必ず、神のご加護があるんだ」
ということで、
「決して、相手に降伏などしない」
という心構えだった人が多かった。
もちろん、政治家にも、軍部にも、その裏で暗躍している人にとっては、
「この国を見捨てることはできない」
という考えから、本当に、国土が焦土となっても、戦争継続をしておいたことだろう。
しかも、国民も、そういう神格化した国という教育を受けてきたことで、戦争継続を望んでいた人も多いことだろう。
実際に、この国においても、
「かの戦争中」
は、
「治安維持法」
であったり、
「国家総動員法」
などという、平和な世界では考えられないような法律があったり、さらには、戦争中に、
「反戦」
であったり、
「宗教の布教」
などのことがあると、特高警察がやってきて、
「非国民」
ということで、
「拷問を受ける」
ということが、当たり前として言われる時代だったりした。
だが、
「本当にそんな拷問などが行われたのだろうか・」
確かに、治安維持法などという法律では、
「これからの、軍国主義下において、国家総動員でことに当たらないといけない時代に、それを妨げる思想であったり、他国からの諜報活動として、それに先導された、国家の主義とは違う連中が主導する国家体制の団体は、叩き潰さないといけない」
という状態というのも、当時の世界大戦前夜としては、
「当たり前にあることだ」
といってもいいだろう。
だが、日本は、それまでの教育として、
というよりも、
「教育というものが始まってからというのは、基本的に、まったく変わっていない」
といってもいい。
元々、徳川時代には、鎖国をしていて、その時代から、開国によって、
「国の体制をどうすればいいのか?」
ということを考え、
「尊王攘夷」
から、
「尊王倒幕」
へと動き、そこから先出来上がった。明治政府によって、諸外国の文化に触れ、
「殖産興業」
「富国強兵」
というものをスローガンに、大きくなっていったのだ。
その目的というのが、開国の際に、欧米列強と結ばされた、
「不平等条約」
の撤廃であった。
日本という国は、その不平等条約のせいで、
「植民地化」
は免れたが、それでも、
「劣等国」
というイメージはまだまだあり、
「アジアの小国」
として見られていたのだ。
それでも、
「日清戦争」
「日露戦争」
を経験することで、日本も、世界の大国に仲間入りすることで、