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マトリョシカの犯罪

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 そもそも、ネットスーパーの原型として、初期に君臨したのは、今のこの会社であることは間違いない。
 そういう意味では、
「うちの会社は、オリジナルがあるから、強い」
 と感じていたが、まさか、
「他から狙われやすい」
 ということまで分かってはいなかったのだ。
 そういうことを考えると、
「この会社も、うかうかしておられない」
 と思っていた矢先、他のシステム会社が、
「注文方法」
 ということで、当時ちょうど、流行り出したスマホと提携する形での提案をしてきたことがあった。
 まだ当時は出始めということで、
「海のモノとも山のモノとも分からない」
 ということだったので、すぐに飛びつくというところも、まだまだなかったということだろう。
 だが、さすがにオリジナルの開発に乗り出した会長が、
「それらのシステムを受け入れる」
 ということで、彼らと提携して、
「期間限定」
 ということであったが、うまく連動ができたようで、注文件数もなかなかの伸びをしめしていた。
 ということで、売り上げの方も、順調に推移したものだ。
 しかも、試験限定の時期が終わると、今度は売り上げが下がり始めた。
 それで、会議で社内方針として、
「スマホの注文技術を共有したい」
 ということで、うまく注文できるようにしたのだった。
 また売り上げが伸びてきたのはよかったのだが、今度はそのせいで、
「うちを子会社にしたい」
 というところがいっぱい出てきたのだ。
「結局狙われるのには、変わりないか」
 とも考えたが、あとは、
「社長、会長という取り締まり役員の方々が決めることだ」
 ということになるのだった。
 実際に、会長がやりてで、今までうまくやってきたのだが、なかなか、時代の流れに沿わなければ、うまく行くものではない。
 まだ、会長が社長の時に、
「新しい事業に参入したことが当たり、いち早いシステム化、情報分析の重要性を、見抜くなど、素晴らしい会長だった」
 という話であるが、その後、少しずつ衰えていく話を聴いていると、
「羽柴秀吉」
 の話を思い出した。
「百姓から身を起こし。織田信長の草履取りから頭角を現してきた秀吉は、信長配下の時は、実にうまく、飛び回っているという印象があった。
 しかし、天下を握ると、その人心掌握術に長けていたということで、人心を掴み、天下人へとなっていくのであった。
 しかし、彼の問題は、まず、
「後継者を作っておかなかった」
 ということであろう。
 それに付随して、
「頼りにしていた人が、ことごとく死んでいった」
 というのもあるだろう。
 ただ、逆に、頼りにしていたはずの人間に、切腹を命ずるなどという一面もあって、
「豊臣時代」
 というと、
「捉えどころのない時代」
 ともいえ、見方によっては、
「独裁の時代だった」
 といえるだろう。
 逆に、この時代、
「どうして秀吉が天下を取ることができたのか?」
 ということが問題だったりするだろう。
 一番大きなこととしては、
「どんな時でも、優秀な軍師や相談役がいたからだ」
 ともいえるだろう。
 信長のように、
「大いなるカリスマ」
 があれば、相談役や軍師がいなくてもいいのかも知れない、
 といっても、まわりを固めるだけの武士団を形成できるのだから、
「信頼できる部下がいた」
 ということに間違いはないだろう。
 それを思えば、
「優秀な人が集まるためには、それなりのカリスマ性がないと無理だ」
 ということになると思えば、秀吉にもそれなりに、カリスマ性があったともいえるだろう。
 それは家康も同じで、家康の場合は、
「本多正信、正純親子」
「天海」
 などと言った、相談役の存在があり、さらに、
「徳川四天王」
 を中心とした、武士団もあったのだ。
 それは、武田信玄にも言えることで、大なり小なり、
「戦国大名として、君臨するには、それだけの人徳がなければいけない」
 ということであろう。
 何しろ時代は、
「群雄割拠」
 と呼ばれる、
「下克上」
 の時代。
 そんな時代に、自分一人だと、やっていけるわけはないだろう。
 武田信虎のように、
「息子に追放」
 されたり、
 斎藤道三のように、
「息子が、自分をお親の仇と思い込んで、殺されてしまったり」
 と、何が起こるか分からない時代だったからだ。
 ただ、一つだけ言えることがある。
 それは、
「戦国大名のほとんどが、最終的に、戦乱のない時代にしたいということを考えていたのではないか?」
 ということであった。
 だからこそ、家康が、大阪の陣が終わり、豊臣家を滅亡させたあと、
「元和堰武」
 と言って、
「平和の時代を宣言する」
 ということになったのだろう。
 武家諸法度にしても、
「一国一城令」
 にしても、
「戦のない時代」
 目指したといってもいいだろう。
 秀吉の場合も、その思いは強かっただろう。
 ひょっとすると、
「一番強かったかも知れない」
 といってもいい。
 何と言っても、百姓上がりだから、
「年貢を貪り取られ、さらには、戦の時には駆り出される」
 ということである。
 戦さえなければ、田畑を荒らすこともなく、年貢は普通に上がってくるのかも知れない。やはり、
「統治」
 という意味では、戦というものは、罪悪以外の何者でもなかったに違いない。
 それを考えると、
「豊臣家が一代で終わったというのは、ある意味、罪悪なだけしかなかったのかも知れニア」
 とも癒えるかも知れない。
 だからといって、秀吉がやった、
「いいこと」
 という
「功績」
 という意味では、
「太閤検地」
「刀狩り」
「惣無事令」
 さらには、賛否両論あるが、敢えて、功績として挙げるとすれば、
「キリスト教禁止令」
 などではないだろうか?
 さらに秀吉には、
「軍事」
 においても、
「平時の統治」
 においても、参謀のような人が必ずついていた。
 中には、早くに亡くなった人もいたが、それでも、生きている間の功績は素晴らしかった。
 特に、弟の秀長などは、その筆頭であり、戦術的にも、戦略的にも長けていただろう。
 さらに、彼は、
「築城の名手」
 ともいわれている。
 秀長に仕えたことで、その後、
「築城の名手の最有力候補」
 と言われている、藤堂高虎の存在も大きなことであった。
 彼にとって、戦時であったり、調略、城攻めなどにおいて、
「部類の天才」
 といえば、
「黒田官兵衛」
 であろう。
 秀吉に、
「次の天下を狙う人がいるとすれば、誰か?」
 と聞かれて、答えられずにいると。
「お前だよ」
 と言われたことで、
「出家して、家督を息子の長政に譲って、隠居した」
 と言われているのである。
 そんな官兵衛の他に、こちらも早死にであったが、
「稲葉山城を、数人で乗っ取った」
 という竹中半兵衛がいる。
 他には、
「蜂須賀正勝」
 なども、その一人であろう。
 四国、九州、関東と、ことごとく平定していくと、平和な時代になると、
「太閤検地」
「刀狩り」
 などということをやり、ある意味、信長の政治を思い出しながらのやり方だったのだろう。
作品名:マトリョシカの犯罪 作家名:森本晃次