マトリョシカの犯罪
もっとも、その前に、
「大体の工数と人数、それによって、予算が決まってきたりするのだろうが、そこは、自分たちの上司であったり、他部署、つまり、業務を行う場所の、専任が、会議に出席し、
そこで、いろいろと討議されることになるのだ」
というものであった。
さらに、詳細設計から、それぞれのプログラムの、
「仕様書単位」
に落とされ、それが初めて。
「プログラマー」
と言われる自分たちに下りてきて、初めて作ることができるのだ。
もちろん、業務の大まかな設計書も一緒に貰うことが多かったりするので、
「自分のプログラムがどのあたりで動くのか?」
ということを知らないと、納期までに作りこんでから、さらに、単体テストまでは完成させなければいけない。
そして、ここでいう、
「納期というのはあくまでも、仕様書を書いた人に対しての納期であって、そこから先、システムテスト、業務テストなどをへて。初めて、エンドユーザーに渡されるのだ」
ということである。
当然システムテストには自分たちも立ち合うのであって、実際に動かしてみて、結果が違っていれば、
「作り直し」
あるいは、
「改修」
という形になるのだろうが、
「それも、仕様書に対しての、勘違いだった」
ということも、十分にありえるのだった。
実際にシステムテストまで完了すれば、後は本番まで待っていることになるが、基本的には、
「携わった人間は、少なくとも、待機はしていなければいけない」
ということで、実際に本番になってトラブルが発生した時は、キチンと改修できるくらいの業務知識が必要だといっていいだろう。
そういう意味では、営業のトラブルなどと違い、改修するには、
「専門的な知識が必要だ」
ということになるのは当たり前のことである。
そして、一つ気になったこととして、
「自分が作ったはずのプログラムが、会社の財産となってしまうことに、どうしても承服できないところがあった」
もちろん、会社から給料をもらって、仕事としてやっていることだから、
「会社の財産」
となるのは当たり前のことである。
しかし、そんなことは分かっているのだが、承服できない気持ちが、自分の中のどこにあるのか、最初は分からなかった。
最初に気が付いた、
「勧善懲悪」
というものから来ているのだろうか?
「いや、そんなことはない」
と感じた。
となると、考えられることとすれば、
「自分がクリエイター気質なんだ」
ということであった。
「自分が作ったものは、著作権がどこにあろうが、自分のものだ」
という考え方である。
「これは、自分が作ったものだ」
ということを会社に認めさせたいというわけでもない。しかし、もしそういうことだとすれば、
「もっと給料を上げてもらう」
ということになって、
「給料という形で、自分の欲求不満を晴らすしかない」
という考えにいたることになるだろう。
そうなると、それが本当に自分のものだと考えてしまうと、
「何か違う」
ということで、矛盾した考えになっていることを感じるのであった。
そんなことを考えていると、
「自分がサラリーマンであるということは、営業であれば、変な気分になることはないが、プログラマーということになると、この状態では我慢できない自分がいるということになるのだ」
といえるだろう。
実際にプログラムを作るようになると、いくら、
「会社のもの」
ということであっても、
「本当は自分で作ったものだ」
ということで、自己満足くらいはできたのだ。
しかし、それを許してくれないのも、システムという全体的なものからすると、嫌であった。
「プログラムというのは、自分で作ったからといって、自分のものではない」
と思い知らされたのは、
人のプログラムの改修を行った時だった。
他の人は、ほとんどそうなのだと思うが、
「最初の作り方」
というのは、
「他の人が作ったものを持ってきて、修正を加える」
というのが、大体のやり方だった。
さらにそのやり方をしていると、
「他の人が作ったものの特性が分かっているから、人の作ったものの改修が、分かりやすい」
ということである。
つまりは、
「自分が、オリジナルで作っていると、他の人が見た時、分かりにくいし、改修など危なくてできない」
ということになるのだ。
もちろん、
「自分が作ったものは、自分で改修する」
というのであればいいのだが、実際にはそうはいかないだろう。
その人が、
「他の仕事で忙しく、対応ができない」
という場合や、
「別の部署に変わっていて、もうシステムとは関わっていない場合」
さらには、
「会社自体を辞めている」
ということもあるだろう。
そうなると、下手をすれば、
「作った人間がいないから、手が付けられない」
ということもあったりするだろう。
また。システムの中には、同じソフトを使ったプログラムでも、
「バージョンが上がれば、そのままでは動かない」
という場合。
さらには。
「同じプログラムでも、新しいバージョンでは、命令が効かない」
などということも平気であったりする。
そんなことを考えると、
「最近のプログラムは互換性は保たれているが、バージョンの違いでうまくいかないこともある」
というものだ。
それが、OSが変わった場合にも言えたりする。
そうなると、その特性を知っておかなければ、動かなくなってからビックリしても、もう遅いということになるのだ。
もしかすると、まったく違う言語で作りか押さなければならないかも知れない時、少なくとも、そのプログラムがどういう動作で動いていたのかを知らなければいけないだろう。
それを考えると、
「システムというものがどういうものなのか?」
ということを知っておく必要もある。
それでも、
「自分で作った作り方を変えたくないという思いが、森山にはあったのだ」
ということだ。
「創造には独創性がないと、想像でしかない」
という言葉を思い出していた。
そんな会社で、システムの勉強をし、実際にプログラムを作るようになると、
「三度の飯よりも、プログラムを作っている方が嬉しい」
というようになった。
実際に、自分が作ったプログラムが、現場で動いたりなどすると、支店の女の子が、ちやほやしてくれているように思うのだ。
しかも、森山は、
「支店業務を、曲りなりにでも知っているではないか」
森山が本部に呼ばれたのも、宮本部長が、管理部長に相談したことから始まった。
「誰か若手で、現場の業務に精通している人間はいないですかね? でも、さすがに営業として、バリバリにやっている人を引き抜くのは、気が引けるんですよ」
という。
そこで。
「白羽の矢が立った」
というのが、森山だったのだ。
しかも、情報システムには、森山と同期の人間が二人いた。この二人がいてくれたのも、いきなり転属させられた、まったく何も知らない部署では、本当にありがたいといってもいいだろう。
「実際に、最初から、プログラム基礎から、勉強していると、必ず、誰もが引っかかるところがあるという」