サナトリウムの記憶
「日本という国が、こんなにも美しいのか?」
と思ったが、それよりも、
「この美しさは、万国共通。ヨーロッパというイメージを勝手に抱いただけのことであり、日本であっても、環境が許せば、同じ気持ちになることができる」
と感じた。
そして、その環境は、ヨーロッパにだけあるわけではなく、日本にだってある。それは、「城のようなものがあるだけで、かなり印象が変わってくる」
ということだからであった。
どんどん、城に近づいてくると、写真でしか見たことがなかったという当たり前のことを思い知らされた気がした。
だが、いよいよ敷地内と思える場所までやってきて、宿の数名が、表にお出迎えをしてくれるのを見ると、
「ああ、やっぱり日本なんだ」
という思いを感じ、並んでいる日本人が、その場所にマッチしていないとは、思えなかったのだ。
バスは、建物に吸い込まれるように、従業員が並んでいる入り口に滑り込むように入っていった。
そこに立っている人は、5名程度であった。
人数的にはちょうどいいだろう。
それ以上の人がいたら、その状態は、本当にヨーロッパのようで、却って、景色に違和感しか残らなかっただろう。
バスから降りると、そこにいたのは、和服の人たちで、明らかに、建物をマッチしている服装ではなかった。
「いらっしゃいませ」
と深々と頭を下げている様子は、まるで、
「有名温泉地の老舗旅館かどこかの若女将」
と言ったところであろうか。
女将というには、少し若い気がする。まだ、年齢的には、20代後半であろうか?
しかし、女性の和服姿を見て、年齢を推測すると、今までの経験から、ほとんど当たったためしがないといってもいいだろう。
さすがに、5人とはいえ、番頭さんを含めたような佇まいには、さすがに拍子抜けした。
「ここは、元々、近くの温泉に老舗として構えていたところだったんですよ」
と女将はいうが、その時は、それだけしか言ってくれなかった。
「何か言いにくいような事情があるのだろうな」
と納得し、秋元も、それ以上詮索しようとは思わなかった。
かといって、知りたくないというわけではなく、好奇心は旺盛である。
「まずは、こちらの自慢の温泉にお浸かりになられると、旅の疲れも癒えますよ」
ということであった。
どうやらここは、
「佇まいこそ、西洋風であるが、中は、純日本風の旅館と言ってもいいようなところではないか」
と感じたのだ。
お風呂も露天部尾賀自慢のようで、目の前に張り出している湖との境が設けられていて、向こうに見える、森の壮大さを、ゆっくりと湯船に漬かりながら、見ることができるというのは、実に圧巻であった。
「ここの温泉は、素晴らしい」
という話は、聴いたことがあった。
ネットの聞き込みにも似たような話があったので、
「間違いではないだろう」
と、温泉に関しては、何らの疑いを抱くわけもなく、今回も、
「気づいたら、温泉に浸かっていた」
というように、どうやら、今日は、
「目の前に広がっている光景で、自分が満足した時、
「一瞬、意識を失う」
ということのようであった。
ただ、その時に、
「なぜかアンモニア臭がするんだ」
というのを、温泉に浸かったそのタイミングで思い出したので、暗の徐、アンモニアを思い出したのだ。
これは。
「記憶が残っているから、そのような妄想を忘れることができない」
ということなのか、
「妄想を抱くということが先にあって。それを、
「記憶だ」
として、思い出すことが必須であるかのような印象操作をすることで、せっかく分かりかけた理屈があったとしても、答えまでにはたどり着けないのではないか?」
と思うのだった。
そのことを感じると、
「自分の記憶力が、ここではまったく発揮させないのではないか?」
と思えた。
それによって。マヒさせられるであろう感覚への、正当性のようなものを感じてしまうということになるだろう。
記憶力というものが、
「ここでは、何の役に立つ者ではない」
と思うのだ。
だとすると、
「記憶喪失であっても、別に臆することはない。つまりは。記憶というものが、潜在意識の中にあることで、ムダな何かを感じてしまう」
ということになるのだ。
記憶喪失の中において、
「覚えておかなければいけない記憶と、断捨離しなければいけない記憶とを、選別するための時間なのではないか?」
ということを考えさせられるのだった。
そのどちらの方が大きいのかを考えると、少し違った感覚も生まれてきた。
「記憶というのは、覚えてお金蹴ればいけないものと、断捨離をして、消し去ることが最良と言われるようなものだけではないのではないか?」
ということを考えるのであった。
温泉に浸かっていると、どうしても、眩しさを避けて通ることはできないと感じた。
その眩しさの原因がどこからくるのかということは、
「火を見るよりも明らか」
といってもいいのに、すぐに分からなかったその時、何とも言えないおかしな気分になるのだった。
後ろにある、聳えたっている、お城のような建物からの光の反射であった。
純白な真っ白さを感じさせる光が、背中に突き刺さっているような気がすると、まともに後ろを振り返るのは、憚る気がして仕方がなかった。
「純白というのは、時として、恐ろしさを醸し出すものだ」
という感覚から、
「まともに見てはいけないもの。それが白い色なのだ」
と感じさせるようになった。
「決して見てはいけないもの」
それはいわゆる、日本の神話。聖書やギリシャ神話のような、西洋の書物の中にも存在する、
「見るなのタブー」
と呼ばれる暗示のようなものであった。
日本の昔話なのでも、
「浦島太郎」
であったり、
「鶴の恩返し」
さらに、
「雪女」
のような話があそうであろう。
西洋であれば、
「ギリシャ神話」
における、
「パンドラの匣」
さらには、
「聖書」
における、
「ソドムとゴモラ」
のような話にも引用されているものであった。
それらの話の一律に言えることとしては、
「ハッピーエンドにはならない」
ということであった。
例えば、
「浦島太郎」
であれば、
「玉手箱をあけると、お爺さんになってしまう」
というもの。ただし、浦島太郎に関しては、ラストシーンには、諸説あるのだと言われる。
「ソドムとゴモラ」
では、
「決して振り返ってはいけない」
ということを言われているのに、好奇心に勝てず、振り返った瞬間、砂になってしまったという話。
さらに、
「パンドラの匣」
では、神様からもらった箱を好奇心から開けてしまったことで、ありとあらゆる、
「不幸や災難」
が箱の中から飛び出し、最後の箱の中に、希望が残ったという話であった。
こちらも、空けてはいけないと言われたものだったのだ。
それらの話を思い出すと、
「あれほど昔に、しかも、成立年代は、バラバラで、さらには、世界各国に伝わるかのような話」