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サナトリウムの記憶

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 まさか、さっき見えたものが、ここに移動してくるわけはない。
 それを考えると、
「狭い木々の間を走っていくことで、いつも同じ光景だということを感じさせられ、次第に小さく見えてくるという錯覚を浴びせられながら、その大きさを欺かれていたのではないだろうか?」
 と感じるのであった。
 そんな道を歩いていると、どこか、自分の意識が薄れていくのを感じた。
 そう、指先が痺れてくるような感覚だった。痺れる指先が意識を中途半端な状態にしてしまう。
「こんな意識。どこかで感じたことがあったな」
 という感覚を思い出した。
 あれは子供の頃だったような気がする。
 まだ、中学生くらいだったか、あの頃は、食べても食べてもお腹が空いてくる。腹が減ると、とことん減ってきて、指先が痺れて、意識が朦朧としてくるのだった。
 そう、あの時の意識と、ほぼ寸分狂わぬ感じだったのだが、今とは、どこかが違っている。
 それが何かということは比較的すぐに分かった。
「そうだ、あの時は、お腹が減って、食べれば、すぐに痺れは収まったのだが、お腹が空いているのは、まだまだで、指先の震えは消えても、空腹は残るというのが、本音だった」
 のである。
 しかし、今回は最初の症状は似ているのだが、
「今回は、食べればすぐに、空腹状態は治ってくるのだが、なぜか痺れが収まるわけではない」
 と考える。
 つまり、
「指の痺れの原因が、空腹だと思って食したとしても、収まらないということは、指先の痺れの原因は、別のところにある」
 ということになるのであろう。
 それを考えると、
「同じ症状でも、子供の頃と大人で違うのだろう」
 ということであった。
 ただ、一つ考えるのは、最初に感じた時が、
「本当に子供だったといえるのでろうか?」
 ということである。
 なるほど、確かに中学生の頃だったので、思春期というものが微妙な頃だった。
「声変わりをした時期だったかな?」
 と考えるが、本当はどうだったのだろう?
 そう思うと、
「もし、あの時が子供だったとすれば、今回の症状は、大人と子供という境界があったということで、大人になった時点で、指先の痺れが空腹によるものだけではない時期に入った」
 と言えるのかも知れない。
 しかし、逆に、あれが、大人になってからだということになると、
「指先の痺れは、空腹の時もあるが、そうでない時もある」
 ということは、結局、理由が分からないということで、
「最初の時は、たまたま空腹だったからだ」
 ということになるのだろう。
 そうやって考えると、少なくとも大人になってしまうと、
「似たような指先の痺れは、原因の一つには空腹もあるかも知れないが、空腹だけが理由ではないということの可能性が大である」
 と言えるということだ。
 ただ、空腹を満たされれば、空腹からの痺れは弱まり、少しは楽になるというものであろう。
 それに、モノを食べるということは、身体に力を与えることで、痺れが意識の薄れを誘発するのであれば、その融沸を抑えるとするのであれば、
「何かを食べる」
 ということが大切になるだろう。
 迷信的な、都市伝説の類なのかも知れないが、昔から真剣に言われ続けてきたことを、おろそかにもできないということであろう。
 そこから、いつの間にか、狭い通りに入っていた。その時、
「俺は一瞬、気を失っていたのかも知れないな」
 と感じた。
 だが、狭い道に入ってからは、それまでの意識を失っていたような気分の悪さは消えていた。
 その瞬間のことを思い出していたが、その時に思ったのが、
「何か、嫌な臭いだったような気するな」
 という思いであった。
 最初は何の臭いかは分からなかったが、よく思い出してみると、その臭いは、アンモニアの臭いだった。
 アンモニアというのは、
「確か、ハチに刺された時に使ったような」
 と思った。
 だが、実際に自分はハチに刺されたという記憶もない。それに、今、一般家庭に、アンモニアの瓶などがあるとは思えないので、果たして、
「いつ、どこで、その臭いを感じたのだろうか?」
 と思うと、おかしな気分だった。
 しかし、気を失うには十分な臭いであり、その臭いのせいで、
「意識を失ってしまったとしても、無理もないことだ」
 ということであった。
 臭いのひどさを思い出していたという意識があった。
 元々、指先が痺れたという意識は思い出せる。そして、その時にアンモニアの臭いを感じていたともいえる。だが、この二つが連動したから一瞬ではあるが、
「意識を失ったのだろう」
 と感じるのだった。
 アンモニアという臭いを感じたのは間違いないだろう。
 目の前にある、木々から差し込んでくる日差しの眩しさを感じると、アンモニアを意識させられるからである。
 ただ、それが本当にたった今のことだったのかどうかというのは、意識があるだけで、定かなことではなかったのだ。
 バスは、少しの間、密林のようなところを走ったかと思うと、そのまま、狭いところを通り過ぎ、今度は、大きな場所に出てきた。
 そこは、今度は広い範囲で森が回り込むようにできているのが見えているところで、
「ああ、ここが、森の中にある、湖と呼ばれるところなのだ」
 と感じるまでに、そんなに時間はかからなかった。
 この思いが、
「先ほどの意識不明の時間が、短かったのではないか?」
 と思わせる根拠のようなものだったのだ。
 そこから先、横を向くと、少し眩しさが眼に飛び込んできた。
 それを見ると、
「ささやかな風が吹いているのかな?」
 と感じさせるのは、水面にまるで年輪のような、波紋が見えていることで、光が微妙に反射して、目に刺さっているように思うのだが、心地よさを感じることで、
「こんなに、心地よいと思えるような感覚を、今までに味わったことはない」
 と言えるのであった。
 目を差すような眩しさに、思わず視線をそらそうとするのだが、その先に見えるものを、
「見逃したくない」
 という思いがあるからなのか、それとも、その場において、見逃してはいけない何かを感じることで、
「目を奪われてしまった」
 という感覚が残ってしまったという思いが、まるで、
「マトリョシカ現象」
 のように感じられるのだ。
「箱の中からまた、一回り小さな箱が出てきて、さらに箱を開けると、箱が入っている……」
 というような感覚であった、
 マトリョシカのように、どんどん開けていくと、小さくなっていき、
「最後には見えなくなるんだろうな」
 とは感じながらも、
「最後には決して、ゼロにはならない」
 という感覚があるのを意識していたのだ。
 湖の広さは、果てしないように最初は感じたのだが、車が走っていくうちに、
「やはり、その先には行き止まりがあるんだろうな」
 と感じるのが早かったのか、目の前に、白い、西洋のお城のような建物が見えた。
 目を凝らして、見ようと、少し座席から乗り出すと、
「あそこが、お泊りになられるホテルです」
 というではないか。
 そういわれると、一瞬、ヨーロッパの城の佇まいを想像していたが、すぐに、
「ここが日本だ」
 という意識を持つようになった。
作品名:サナトリウムの記憶 作家名:森本晃次