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サナトリウムの記憶

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「本来なら、この世から抹殺された研究所なので、それらの資料が残っているわけはないのに、某国では、人体実験でもしない限り証明できないことを、公言し、それをあたかも、自分たちの科学力が優秀だからできたのだというような話をしているのである」
 それを考えると、完全な、
「火事場泥棒」
 である。
 確かに、その研究を平和利用することで、どれほどの、かつて言われていた、
「不治の病」
 というものが、今では、どれほどの数、手術も必要なく、投薬だけで、完治するということになるのである。
 実に、すごいとこではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
 このサナトリウムが、夢ではなく、本物だという意識は、まだ本物ではなかった。
「どこか、頭がすっきりしているわけではない。スッキリしないから、サナトリウムが見えている」
 といっても過言ではない。
 サナトリウムが、いつ頃からここにあるのか?
 ということも想像がつかないし、見る限りでは、最近建ったというものでもないのは、一目瞭然である。
 中を見たわけではないが、表を見るだけで、中の様子は分かるというもの、先ほどチラッと感じた。大いなる湿気を帯びた建物を、
「最初は気持ち悪い」
 と感じたが、それがそのうちに、
「慣れてきたかのように感じる」
 という感覚は。
「それほどの気持ち悪さという感覚を、マヒさせるかのように思える」
 ということであった。
 その小説で、そういうシチュエーションを読んだことで、中に入った気がしたのだ。
 そこは、病院としての
「サナトリウム」
 であるはずなのに、鉄格子の部屋になっていて、そこ以外は、コンクリートで固められ、絶対に逃れることのできない、そんな場所では、
「拘束された部屋」
 ということで、精神的な脅迫観念に襲われてしまっているのが、恐ろしいのであった。
 こんな恐ろしい状況において、
「いつどのように、逃げればいいのか?」
 ということで、
「その場所から退避するということは、逃げているということに他ならない」
 と思うことだったのだ。
 必死になって逃げているという印象が、すぐには結び付かない。これが、本に書いてあった、
「慣れ」
 というものであり、結局、
「感覚がマヒしてしまう」
 ということになるのだった。
 そんな状態において、その小説が結局何が言いたかったのかということは、最後まで読んでも分からなかった。
 何度も読み直してみたが、結論にいたるわけではなく、むしろ。
「何度読んでも、着地点が、共通ではないのだ」
 ということで、却って頭が混乱するという意味で、
「読み物としては、反則といっていいものでは?」
 と考えたが、逆の意味で、
「作者の術中に嵌ってしまった」
 と考えれば、
「俺にとって、今ではあの本が、何かのバイブルのように思えてならない」
 と感じた。
 それが、
「倫理的なもの、道徳的なものが、正しい」
 と考えれば、
「本当に、その通りの発想なのだろうか?」
 ということになるのだった。
 そんなことを考えていると、
「おや?」
 と感じることがあった。
 というのは、その本のことを、実はつい最近まで忘れていた。
「バイブルであるかのように思っていたはずなのではないだろうか?」
 と、どこか矛盾した発想を頭の中で抱いていたのだ。
 バイブルというものは、
「普段から定期的に意識してこそ、バイブルなのだ」
 と思うと、その存在を、少なくとも、一瞬たりとも忘れてしまうというのは、まずいということであろう。
 そう思うと、
「俺は、どこかで、記憶喪失のようになっていたのではないだろうか?」
 という、何とも突飛な発想が頭をもたげた。
 記憶喪失というのは、
「記憶を失うことで、何かの辻褄が逢い、そして、記憶喪失ということが、矛盾でなくなるということになるのだ」
 という、当たり前のことを、当たり前に言っているだけのことなのだが、本当にそうなのだろうか?
 記憶喪失で、問題になると考えるのは、
「その長さである」
 とも考える。
 記憶を失うことによって、
「自分を信じられなくなる」
 という感情であったり、それが、ひどくなると、今度は、
「自己嫌悪」
 に陥ってしまうということになる。
 これらの悪循環を、どこで断ち切るかということになるが、
「記憶を失う」
 ということが、本人の本能であったり、潜在意識によるものであったのだとすれば、
「それは、記憶を失うということ自体に、悪いということはないのではないか?」
 と感じるのであった。
 これらのことを考えると、
「記憶喪失者」
 というものは、
「どこから気を失う」
 ということになるのか?
 それが、
「いつからなのか?」
 さらには、
「どの段階からなのか?」
 ということを考える必要があるということであろう。
 そもそも、記憶を失うということは、
「思い出したくない記憶を、封印しようとしている証拠ではないか?」
 ということであれば、それなりに、辻褄が遭うということになるのではないであろうか?
 そういえば、この小説では、
「キチンと、記憶を失うことができる人間だけではない。それ以外に、機械との相性が悪いのか、ちゃんと記憶が喪失できない人間は、それでも、組織としては、記憶を失ってもらわなければいけない」
 ということで、
「この研究室で、記憶を喪失させる装置の開発を、急務としていた」
 というのだ。
 しかし、それだけではなく、
「その時、記憶を失わなければならない状態で、記憶を消去することができなかった人間をどうするか?」
 ということが当然のごとく、問題になる。
「抹殺すればいいのか?」
 ということになるが、そういうわけにもいかない。
「誰かが、行方不明になった」
 ということになっても、まずいのだ。
 つまりは、本人はちゃんと存在していて、記憶だけを喪失させるしかないのだ。
 そこで考えられた強引な方法として、一種の、
「電気ショックのようなもの」
 であった。
 ただ、その場合には、一種の副作用があったのだ。
 というのは、
「頭のある一点を刺激して、思い出してはいけない部分の記憶を一時的にであるが消してしまう」
 ということだった。
「一時的でもいいのか?」
 ということであるが、それは問題なかった。
 一時的にでも記憶が途絶えてしまうと、本人は、それを夢だと思い込み、覚えていたとしても、夢だけで片付けてしまうのだ。
 しかも都合のいいことに、まるで記憶喪失に罹った時同様、記憶を取り戻そうと、意識すると、激しい頭痛に襲われるのだった。
 つまり、頭痛が起こるというのは、
「記憶を取り戻すことへの自分の拒否反応である」
 といえる。
 だから、記憶喪失というのは、
「誰かの手によって、無理やり仕込まれた」
 という人がいるが、まさにその通りだ。
 そして、その、
「誰か」
 というのが、本人そのものである可能性だってある。
 いや、
「限りなく本人ではないか?」
 というおかしな表現だが、その通りだといってもいいだろう。
 それを考えると、
作品名:サナトリウムの記憶 作家名:森本晃次