サナトリウムの記憶
「志願兵のようなものも、結構いたのだろう。そもそも、日本人は国土が狭く、軍人となりえる人口が圧倒的に列強に比べれば少なかったのだ」
それでも、兵隊への志願は後を絶たない。
だが、実際には、それ以上に、兵隊の数が欲しかったのが、軍であろう。
「満州に何度も送られる」
という人も結構いたとも聞いている。
ただ、大東亜戦争の時のような激戦で、しかも、太平洋に戦線を広げすぎてしまったことで、兵隊の絶対数が足りなくなり、それまでは、英駅免除だった、
「大学生」
なども、
「学徒出陣」
などといって、大学生であっても、赤紙がきて、南方の激戦地に送られるということが、普通に起こったのだ。
その理由として、
「兵隊の命を軽視している」
といえるだろう。
そのいい例が、
「ゼロ戦などのような、スピードや機動力に特化させてしまったために、防衛力はまったくの皆無」
ということになったのだった。
ただ、どんなに軍人になりたくてもなれないのが、
「疾患を持った人たち」
であった。
精神的にも肉体的にも疾患があると、兵役に耐えられず、足手まといになるというものだ。
それで、兵隊免除となると、まわりから、下手をすれば、
「非国民扱い」
をされ、それこそ、大いなる差別で、治る病気も治らなくなるのだった。
それだけに、国家が、いよいよ、世界大戦に突入するという状況になり、
「治安維持法」
であったり、
「国家総動員法」
などというものができてくると、
「お国のために、働けない人間は、役に立たない」
などというレッテルを貼られるというものだ。
「大日本帝国」
というものは、皆が一つの目標に向かうというのがスローガンというもので、
「富国強兵」
というものが、明治時代からあった。
産業を興し、それによって、国を富ませ、そして、兵を強くし、国防を行う。
ということである。
元々は、
「ペリー提督が行った、砲艦外交によって、各国と結ばされた不平等条約の解消」
というのが、最大の目的だった。
「不平等な関税の掛け方の解消」
さらには、
「自国で条約の相手国民が罪を犯した場合、日本で裁くことができないという、領事裁判権というものの撤廃が大きな目標だったのだ」
といえるであろう。
列強に、
「追いつけ追い越せ」
それによって、不平等条約を解消できるというのが、
「明治維新からの、国家の最大目標」
だったのだ。
ある程度は解消され、日本国は、
「一独立国」
としての名誉を持つことができるようになったが、今度は日本がアジア支配を目指そうとすることで、
「さらなる領土拡大」
であったり、
「アジアへの植民地化」
という考えもあったかも知れないが、実際に当時の戦争目的としては、あくまでも、
「大東亜共栄圏」
の確立だったのだ。
「大東亜共栄圏」
というのは、
「大東亜」
つまり、
「東アジアにおいて、現在、欧米列強から、植民地とされている地域を独立させ、アジアに、大東亜共栄圏」
という、独立国家どうしで、アジアの侵略を阻害し、日本を中心に、列強に対抗しようという考え方であった。
それらの考え方が、
「戦争遂行目的」
つまりは、
「戦争スローガン」
となったのだった。
それらの目的完遂のために、
「今まで、富国強兵を行ってきた」
ということになれば、大きな大義名分ができるというものであった。
そんな時代において、サナトリウムは、下手をすれば、
「差別の対象になあったかも知れない」
ちなみに、兵役にパスできなかったことが、精神を病んでしまい、
「村人の大量殺戮」
という大事件を引き起こした、
「津山事件」
というのがあった。
戦後における、探偵小説の元になった事件として有名であったが、
「兵役に付けないことで、まわりから、差別的待遇を受けたことで、まわりが皆敵に見えるというような精神疾患を持ってしまった」
ということなのか、
「村人三十人殺し」
ということになったのだ。
サナトリウムにいる人たちも、さぞや、心が痛んだことであろう。
中には。
「こんなところで死ぬのではなく、できれば、戦場で死にたかった」
と思う人もいただろう。
何と言っても、
「どうせ死ぬのだから」
ということである。
今の時代のように、
「命は大切なものだ」
というわけではなく、
「命を大切にしないといけない」
というのは、あくまでも、
「天皇猊下の役に立つため」
ということである。
だから、国家運営という意味であれば、
「死ぬことは犬死になるので、生き抜くことが大切だ」
ということになる。
しかし、いざ、有事、戦争ともなると、天皇陛下のために命を捧げ、勝ち目がないと思うと、いわゆる、
「戦陣訓」
と言われるものに従って、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
ということで、
「捕虜になるくらいなら、自害して果てろ」
というのが、
「大日本帝国民だ」
ということになるのだった。
そんなことを考えれば、フィリピや、サイパン、沖縄などで実際に行われた、
「玉砕」
などということになるのだ。
完全に追い込まれ、食料、武器、弾薬は底をつき、組織的な戦争は、すでに終わった状態であれば、敵の捕虜になったり、虐殺されることを思えば、
「少しでも相手をやっつけてから、死んでいく」
と考えるのも、無理もないことであろう。
今は、
「自ら死を選ぶ」
というのは、
「いけないことだ」
と言われるが、実際には、
「国家のため、天皇陛下のために、命を落とすのは当たり前」
と言われる。
「天皇陛下のために命を落とすのは、これ以上の名誉はない」
ということだ。
しかし、その気持ちも分からないでもない。
「人間必ず、いつかは死ぬのだ。だとすれば、国家元首である天皇猊下のために死ぬのは、国家のために死ぬということであり、国民としては当たり前のことだ」
ということになるだろう。
要するに、
「どこで死ぬか分からないのであれば、元首様のために死ぬということであれば、お家の名誉ということになり、それが、正しいことだ」
というような教育を受けていたとすれば、
「それは正しいことだ」
といえるのではないだろうか?
一種の宗教のようなものであり、
「カミカゼ特攻隊」
なるものと、
「自爆テロ」
というものの共通性を考えれば、
「大日本帝国は、天皇を中心とした、大きな宗教団体だったのではないか?」
という考え方が出てきても無理もないことだろう。
もちろん、それが正しいとは言えないが、
「無駄なことで命を落とすことを思えば、誰かを守って死んでいくと考えれば、どれだけ浮かばれるというのか?」
つまり、
「大日本帝国の考え方も、極端ではあるが、なまじ間違ってはいない」
といえるのではないだろうか?
「サナトリウムというものをいかに理解するか?」
ということは、少なくとも、
「大日本帝国」
というものをちゃんと理解していないと、この施設を理解もできないのではないか?
ということであった。
戦後には姿を消した施設なので、
「日本国」