サナトリウムの記憶
「本格派探偵小説」
という形のものも結構するようだということだった。
そういえば、その作家の名前は聴いたことがあった。トリックなどは、ほとんどが、叙述トリックに近いもので、本格派探偵小説のような、
「派手さ」
のようなものはないが、その代わり、
「大人の小説」
といっていい、内容の本だった。
流行ったのは、子供の頃だったが、
「社会派探偵小説」
呼ばれるものは、次第にすたれて行っていた。
その頃から後は、ほとんど本を読むようなことはなかったので、欲わからない。
たぶんであるが、その頃は、
「ケイタイ小説」
と呼ばれる、
「何チャンネル」
だったか、一世を風靡していたようだが、正直、
「くだらない」
と思っていたので、見る気もしなかった。
まるで子供が読む絵本のように、無駄に空白が多く、絵文字と言っていいのか、まるで、象形文字か、楔形文字のような、へんてこな図形なのか、文字なのかで作られた本であった。
「こんなものが、こんな作品が売れるんだ」
と、
「この世の末」
を感じた。
さらに、それまでテレビドラマというと、原作は、その時に売れている小説か、あるいは、脚本家のオリジナル作品のどちらかが主流であったが、最近は、脚本家の作品は普通に残っているが、小説家が書いている小説がドラマ化されるということは、ほとんどなくなった。
その代わりが、マンガで売れた作品である。
売れっ子作家にでもなれば、毎回、
「1クールで一作品」
が、ドラマ化されるというのが、通常だといえるだろう。
ただ、最近では、
「小説が原作で、マンガ化し、そこから、ドラマ化するという、ちょっと面倒臭いような作品も出てきた」
この、マンガの原作のようになる、小説などの原作本のことを、
「ライトノベル」
というのであった。
ライトノベルは、結構人気のようで、特に、最近では、ドラマ化に合わせる原作だけではなく、
「ファンタジー小説」
と呼ばれるものが多かったりする。
「転生モノ」
ということで、
「異世界ファンタジー系」
の作品も結構あったりする。
また、今度はドラマの原作にも徐々になっていきているものとして、
「BL」
お呼ばれるものがある。
「ボーイズラブ」
つまり、
「男同士の恋愛」
である。
昔であれば、
「男色」
「衆道」
などと言われ、
「汚いもの」
というイメージがあったが、今は、
「美少年同士のラブマンガ」
なのである。
その漫画家の名前は確か。
「工藤雄介」
と言った。
彼の作品を、秋元は、全部読んでいるわけではないが、本屋にあった作品を、結構読んだ気がした。
連続ものというよりも、
「連作」
という感じが多く、一冊で完結がほとんどなのだが、その内容は、短編の一話完結の連作というイメージである。
「なるほど、いわれてみれば、このあたりの様子は、あの人のマンガに出てきそうな気がするな」
そして、最近出たと言われる本が、まだ本屋に並んでいないので、読んでいないが、結構、評判となった作品で、
「なるべく早く読んでみたい」
と感じていた。
そんなことを考えながら進んでいると、その先に見えているのが、何なのか、何となく分かってきたような気がした。
「今、俺は、工藤作品の中にいるんだ」
と考えていたからだ。
工藤作品は、ファンタジーの中でも切ない物語を感じさせた。
作者が男なのに、どこか、
「女性マンガっぽい」
と、感じさせるのは、
「メルヘンチック」
なところがあると思わせるからだった。
マンガの中には、
「男性ペンネーム」
を使っているが、本当は女性作家だったり、
「女性ペンネーム」
を使っているが、本当は男性作家だったということも、少なくはない。
しかし、最近はそれも少なくなかった。どこか、
「読者を舐めている」
と思わせる場合があるからだった。
この漫画家は、元々は、小説家だったという。
ラノベ小説を書いていたが、
「絵がうまいということで、自分の書いた小説を、マンガに起こしてみると、編集者から、正式に、漫画家としての契約となった」
つまり、マンガ一筋で、そこには、ラノベを介さない、マンガオリジナルを求められた。
元々、ラノベ小説というのは、
「マンガになって、将来、ドラマ化などというクッションを置いた、作品の完成させるための過程の一つ」
だったのだといってもいいだろう。
工藤雄介の作品は、本当にロマンチックで、さらに、どこまで浸透されているのかということを考えさせられるのであった。
このあたりを歩いていると、思い出してくる光景があった。
それは、目を瞑ってでも、見えてくるものであり、それが、このあたりの森の雰囲気と酷似しているのだった。
工藤のマンガは、一度読んで、その内容を感じさせると、
「こんなにマンガって、想像できるものだったのか?」
と感じた。
工藤のマンガは、読んでいくうち、次第に目を閉じるようになり、そこに、覚悟のようなものが、醸し出されて、普通なら、
「ラノベから、マンガ」
という形が主流なのに、
「マンガから、ラノベに落とすことができる作品を書けるという、実に希少価値な漫画家ではないか?」
と言えるのではないかと感じるのだった。
実際に、そのラノベを思い浮べてみると、
「普通のマンガであれば、これを小説や、映像作品にするのは難しい気がした」
と感じた。
しかし、
「映像作品にするためのラノベ化」
ということは可能ではないかと感じたのだ。
ということは、まずはラノベとして起こせるように、この光景を、実況中継をし始めたのだ。
ただ、このやり方を感じながら、ラノベに起こそうとすると、何とも不思議なことに、
「最初から、ラノベが想像できていたかのように思うのは、ただの錯覚なのであろうか?」
と感じたが、そうではないようだ。
頭の中に、他の作品のラノベが残っていて、マンガを見るたびに、そこに、別の意味での、
「既視感」
というものが存在しているように、思えるのであろう。
「既視感」
というのは、
「初めて見るもののような気がするのだが、初めてではない」
という感覚に近いもので、現象としての、
「デジャブ」
に酷似している。
既視感というものが、目の前に見ている、
「動かない光景」
であり、
「一枚の絵」
として見えている感覚を味わうのだ。
その光景が、目の前の森が、そのままの既視感として、瞼の裏に映っているかのようであった。
だが、そのまま何もせずに、その場にずっといるわけにもいかず、ゆっくりと前を歩いていく必要はあった。
そのたびに、森の中から移動することで、最初に感じた既視感が薄れるだけではなく、デジャブとして妄想に走った光景が、果たして自分の中で、
「デジャブ」
として出てくるのかどうかというのも、意識の中のことである。
とにかく、歩かなければ、どうしようもない。絵を描きにきたのだから、
「絵を描きたい」
と感じるスポットを探す必要があるのだ。
そんなスポットの存在を意識しながら、
「最終的には、逃れられない状況」
というものが、