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サナトリウムの記憶

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「何かの錯覚を覚えたことが何度あったことか」
 と感じたのであった。
 散歩自体は、それほどきついとも思わなかったし、
「ここがちょうどいい」
 という場所も見つけることができた。
 それを思うと、
「今回の散歩は、気持ちよかった」
 ということで終わってもいいはずだった。
 確かに、頭痛があったのも、無理もないことであったが、その代わり、頭痛を意識していると、
「頭痛が、錯覚を覚えさせるような気がする」
 と感じるのだった。
 そんな中において、
 散歩をしていると、遠くの方から、
「ワオーン」
 という犬の鳴き声が聞こえた。
「何だろう?」
 普段から、犬が好きなので、近所で飼われている犬を数匹、馴染みだと思って、よく散歩の途中に頭をなでてあげたりして、自分では、
「可愛がっている」
 と思っているが、実際には、
「自分が、構われているのかも知れない」
 とも感じることがあった。
 しかし、犬たちを見ていると、
「犬の顔を見ていると、その表情は、こちらが思っているよりも、意外と、あまり気にしていないのではないか?」
 と思うことがあり、急に冷めた気分になることがあった。
 飼い主も、
「ごめんなさいね。この子は、気まぐれなところがあるから」
 と、こちらを気遣ってか、犬が気にしていないのを見て、そういって、言い訳をするのだった。
 もちろん、犬もそんなつもりもないのだろうし、買主に何ら責任があるわけではない、むしろ、自分が犬にかまって、構ってくれない犬に対して、勝手に失望しているだけではないか。
 そんなことを考えると、
「俺は、かまってちゃんというよりも、違う形の承認欲求が強いのかも知れないな:
 と感じた。
 ただ、犬の鳴き声は、自分で感じていることに、ある程度の自信はある。
「犬が何かを訴えている」
「何かをしたいと思っている」
 などということは分かっているような気がするのだ。
 しかし、だからといって、それが、確証があるものだとは言えない。
 勝手に自分が感じていることが、
「正しい」
 と思っているだけだ。
 しかし、犬の顔を見ていると、
「その時の犬の気持ちが分かる」
 と思うのだった。
 気持ちが分かるから、吠えている理由が分かるというものだが、どうも、買主が考えていることと違うように思うのだ。
「だから、分かってくれない買主の代わりに、俺に訴えているのだろうか?」
 と感じる。
 その発想は、間違っていないような気がするのだが、そう考えると、これも、
「承認欲求の表れだ」
 と言えるのではないだろうかと感じるのだった。
 絵を描き始めた時のことを、秋元は思い出していた。
 最初に絵を描きたいと思ったのは、高校生の頃だった。
 正直、中学生になった頃から、
「美術」
「音楽」
 などという芸術系のものには、一切の興味を失っていた。
 絵画も、工作も、実際には小学校の頃から嫌だった。正直に言って、
「面倒くさがり」
 なところがある。
 だから、一番面倒臭いと思ったのは、
「絵具を使うことで、汚れる」
 ということであった。
「汚さないように、気を付けてやればいいじゃないか?」
 と他の人はいうだろう。
「それができないから、面倒臭がり屋だって言ってるんだよ」
 というと、
「いやいや、そもそも、絵の具で汚れることと、面倒臭がり屋というのは、意味が違うのではないか?」
 と言われるので、秋元は、その意味が分からなかった。
 相手はそれを見て、
「言い訳を考えているのだろうが、その言い訳が見つからないから、考え込んでいるんだな。卑怯だ」
 と思っているのかも知れない。
 第三者が見れば、そう感じるだろう。
 しかし、
「絵を描くのが面倒くさい」
 と考える時点で、絵を描くだけの気持ちになっていない。
 つまりは、
「初期段階から、心構えがなっていない」
 ということであろう。
 それが分かったので、
「もう絵を描くなんて俺が思わなければそれでいいんだ」
 ということである。
 特に、それ以上の授業では、
「もうどうでもいいや」
 という感じになっていた。
 真面目に授業として参加する気持ちもないし、そもそも、
「芸術って、押し付けるものなのか?」
 と考えるのだった。
 確かに、学校の授業として存在するのだから、
「やらなければいけない」
 という理屈なのだろうが、
「嫌な人間に無理矢理押し付けるというのは、芸術という意味で、ありなのだろうか?」
 と考えるのだ。
 そんな芸術だったが、今から思えば、
「あの頃の学校の勉強というと、主要科目だけでなく、それ以外の科目も、すべてが押しつけだった」
 と思っている。
 主要科目は、もちろんのこと、好きな人でもない限り、
「受験に必要だから、仕方なく」
 と思っていることだろう。
 そういう意味で、学校の勉強を、
「学問」
 として捉えている人がどれほどいることだろうか?
 理科や社会科などは、必須科目の中でも、
「学問らしい」
 と言えるのではないか?
 数学や、英語、国語も、学問ではあるが、どうしても、学問として、社会に出てから必要となるであろうことは、
「理数系」
「文系」
 という意味で、
「理科、社会、国語」
 ではないだろうか?
 もちろん、英語などは、仕事で海外に行く場合などは、取得必須であろうが、それ以外の学問としての、リアルな習得となると、
「化学、物理学、生物」
 などの、理科全般ではないかと思えるのだった。
 秋元は、理科の中でも、化学は好きだったが、他は嫌いで、
「自分に合わない」
 と思ったので、文系に進んだ。
 とりあえず、
「つぶしが利く」
 と言われた、法学部に入学し、無難に卒業できたが、今から思えば、
「公務員試験でも受けておけばよかった」
 と思うほど、就活の時、
「就活は大変だ」
 と思い知らされたものだった。
 だから、ブラック企業に入社する羽目になったのだが、今は少しでもマシになったことは、
「よかった」
 と言えるだろう。
 だが、もっと言えば、ブラックが少しずつでもマシになってきたところで、
「芸術にでも親しみたい」
 と思うようになったのは、自分の中では、
「タイムリーだった」
 と言えるだろう。
 芸術に親しむということで、
「絵画にするか?」
 それとも、
「工作にするか?」
 それとも、
「音楽にするか?」
 と考えた時、
 まず、音楽は最初から消えていたといってもいい。
 それはなぜかというと、楽器を弾く以前に、
「楽譜の読み方が分からない」
 という状態だった。
「楽譜を見るというのは、今から勉強しなおして、英検の1級に合格を目指そうというようなものである」
 と言えるくらいだった。
 しかし、そんなことをいまさらできないと思ったことで、
「音楽を断念し、美術関係に絞ろう」
 と考えたのだ。
 絵画と、工作は正直悩んだのだが、
「工作は場所のいるし、汚くなる可能性がさらに高い」
 ということで、
「大学時代であれば、美術室のような、アトリエのようなところで作業できるだろうが、社会人になると、そうもいかない」
 ということになり、
「絵画の方がいい」
作品名:サナトリウムの記憶 作家名:森本晃次