力の均衡による殺人計画
それができるのは、国家だけであり、国家に対しての、
「至上命令だ」
といってもいいだろう。
そのあたりがしっかりしていないと、刻印生活だけでなく、政府もその体制を保つことができないといってもいい。
何といっても、
「国家を形成しているのは、国民一人一人なのだから」
と言えるだろう。
政府は、何といっても、予算にしろ、国会議員の給料にしても、その出どころは、
「税金」
なのだ。
つまり、皆が、汗水たらして働いた金を、憲法で、
「納税の義務」
として、国民全員に、課しているではないか。
だから、政治家を中心とした、
「公務員」
というのは、
「試験に合格した、資格取得者」
でなければなれないということであり、政治家は、投票によって選ばれた人がなれるというわけだ。
だから、国民の投票で選ばれた議員を、簡単には、罷免もできない。
しかし、逆に、国民のためにならないことをする人に対しては、
「厳しい目」
を向けなければいけないというわけである。
そんな国会議員を決めるのが国民であれば、変な人が政治家になったとすれば、国民の、
(一部の人間かも知れないが)責任だといってもいいだろう。
そんなことを考えていると、
「公務員が悪いことをするのは、確かに公務員も悪いが、そんな人間を選挙で選んだ、国民にも責任がある」
と言えるだろう。
それだけ、有権者の責任というのは、難しいのかも知れない。
「だったら、選挙に行かなければいいんだ」
ということになるのだろうが、
今の政府与党に対して、
「政権交代」
を望むのであれば、それは、
「投票放棄」
というのは、得策ではない。
なぜかというと、
「投票率が下がれば、それだけ与党が有利だ」
ということだからだ。
どういうことかというと、
「与党が元々強いのは、固定の支持層がいる」
ということで、彼らは、どんなに投票率が低い時にでも、投票に行くのだ。
もっといえば、
「投票にいく人に向かって、選挙運動wしなければ、意味がない」
ということになるのだ。
それを思えば、
「投票に行かないということは、政府与党を認めた」
ということと同じになってしまう。
というのと同じになってしまう。
しかし、
「では、どこの誰に票を入れればいいんだ?」
ということになる。
実際に、投票率が低いということの、直接的な理由は。
「どこに入れていいか分からない?」
あるいは、
「どこにも入れる場所がない」
ということで、いかないのだ。
ということになると、その理由は一目瞭然、
「野党が弱いからだ」
ということになる。
その理由としては、
「野党が分裂していて、与党に標的に叶わない」
あるいは、
「野党の政策が、個人でバラバラだ」
ということ。
さらには、
「推しの政党の政策がハッキリしない」
などということで、もし、政策上、まとまっていたとしても、結局、
「烏合の衆」
であることには変わりなく、結果、
「どこにも入れるところがない」
ということになり、
「選挙を棄権する」
ということになるのであろう。
これは、
「いくら、選挙に行きなさい」
と言われても、実際に、
「入れるところがないのであれば、行ってもしょうがない」
ということになり、この責任はやはり、
「野党側にある」
といっても過言ではないだろう。
そんな政治がおかしいと思っている人も、山ほどいるのだろうが、そのほとんどが、
「どうせ、与党が勝って、世の中が変わるなんてことはない」
と思うことだろう。
というのも、十数年前だったか、一度政権交代が起こったことがあった。
その理由としては、
「年金焼失問題」
というのがあった。
その時、政府は、
「今までの、いい加減な体制のツケが回った」
ということであったが、他人事のように行っているが、
「誰がやったか?」
ということである。
これは明らかに、
「ずさんな管理体制」
だった方が悪いわけで、
「ちゃんとマニュアルは作っていた」
というかも知れないが、
「いくらマニュアルがあったからといって、それを守っていないのであれば、作成はできても、運用ができていない」
ということになる、
だったら、
「作成部署と、運用部署を分ける」
ということにするか。
「いや、別れている」
ということであれば、
「二重チェックなど徹底させるか」
ということであろう。
それでも、
「やっている」
というのであれば、
「やってないから、こうなったんじゃないか?」
と言われるだろう。
「結局、何を言っても、結果が伴っていないのであれば、言い訳でしかない」
ということになるなら、
「第三者委員会」
を作って、しっかり、やり方を変えるか、それができないのであれば、いざぎよく、
「政権交代」
ということになるか?
ということである。
政権交代であれば、選挙による結果なので、有無も言わせずであるが、実際に、十数年前には、その政権交代が起こったのだ。
理由は、他にもいろいろあったであろうが、結果としては、その理由のほとんどは、
「年金焼失問題」
だったのだ。
こうやって書けば、実際の、
「犯人」
は分からないということから、当時は、
「消えた年金問題」
という、含みのある言い方をしていたのだろう。
とにかく、
「消した張本人」
というのがいるわけで、それが、複数いるというだけで、そうなると、責任は、
「党が取る」
ということになるのだ。
しかし、実際に、党の責任ということで、政権交代を余儀なくされたのだが、その時、ちょうど、野党第一党の勢力も強かった。
もちろん、政府与党のずさんな管理のせいで、その信頼が地に落ちたということもあっただろうが、
国民のほとんどが、新しい政府に対して、かなりの機体を寄せていたというのは間違いないだろう。
しかし、実際にやらせてみると、
「まったくどうしようもないほどに、何もできない」
という政党だった。
これは、まるで、明治維新の時に、徳川慶喜がやろうとして失敗した、
「大政奉還」
と同じようなものだ。
あの頃は、
「体制を奉還しても、政府は、今まD政治をやってきていないのだから、いずれ、泣きついてくる」
という発想だった。
しかし、数十年前は、新しく政府になった野党第一党は、まったくもって、国民の期待に沿うどころか。
「困っている国民に対して、逆ギレするような、とんでもなく、ひどい政府だ」
ということであった。
しかも、その政党は、当時、天災に見舞われるという、
「不幸」
があったのだが、何と、その被災者に対して、何度となく、怒らせるような方針や態度を取り続けたことで、世間を完全に敵に回してしまった。
しかも、その任期が終わる頃に振り返ってみると、
「公約で誓ったことの、そのほとんどは、できていない」
さらには、
「着手もできていない」
という体たらく。
そこへもってきて、
「国民感情を逆撫でするようなことをしているのだ」
ということだから、
「そりゃあ、政権を維持などできるはずもない」
作品名:力の均衡による殺人計画 作家名:森本晃次