力の均衡による殺人計画
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年5月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。このお話は、真実っぽい過去の話はあっても、あくまでも、登場する国家、政府、関係者、組織は架空のお話になります。国家や省庁で、どこかで聞いたようなところも出てきますが、あくまでもフィクションです。今回は、精神疾患の遺伝について書いていますが、この病気はあくまでもフィクションですので、ご了承ください、
選挙事務所
最近では、ここ数日のことに限っていえば、少しいつもの通りが普段より暗く感じられた。街灯は明るいはずなのに、どうしても、暗く感じられることで、その一帯が狭く感じるほどになっていたのだ。
だから、できている影も、それほど大きなものでなく、広さが限定されるのは、
「中途半端な明るさと、真っ暗になる境界との間が、次第にせまくなっているように見える」
ということからだった。
小さく見えるということは、それだけでなく、見えていうものが、次第に、
「遠くに見える」
という錯覚も生みだして、
「夜のとばり」
というものを、ハッキリと感じられるのだった。
そんな夜の時間が、次第に短くなっていくのは、特にここ数日で感じるようになってきた。
つい一か月くらい前までは、まだまだ、夜は寒かった。
その寒さに打ち震えるように、ゆっくりとしか動けなかったあの頃に比べて、今は夜でも、
「歩けば、額に汗が滲む」
というくらいになっているのであった。
歩いていくと、その先に見えるのは、下手をすると、
「何かが蠢いている」
という感覚ではないだろうか?
昔のような、
「電柱に裸電球」
などという、それこそ、
「昭和の古き良き時代」
を思わせるような、ところであった。
このあたりは、住宅地ということもあり、
「閑静な一帯」
といってもいいだろう、
昔からの、住宅地と、マンション地域、さらに、平成初期くらいにできた、いわゆる、
「新興住宅地区」
と、それぞれに、区画整理されている。
それぞれの居住区で、問題が発生することもなく、それぞれで運営している自治体における、
「町内会」
のようなものが、きちっと運営されていて、実際に、それほど大きな問題が発生することもない、
「閑静な住宅街」
が形成されているのだった。
あれは、
「世界的なパンデミック」
というものが発生し、世の中では、
「閑静な住宅街」
以外のところは、かなり、その佇まいを異にするところばかりだった。
特に、街中にある繁華街などは、人の賑わいが、バロメーターであったのに、
「人の流れを抑制する」
というような、政府からの要請があり、実際に、歩く人もほとんどおらず、店を開けていても、誰も入ってこないような状態だった。
何といっても、政府が最初に行った市民生活に対しての対策が、
「全国、小中学校への、休校要請」
だったのだ。
もちろん、政府の政策としては、
「水際対策の徹底」
ということを行う必要があった。
しかし、
「甘く見ていた」
ということもあって、結果として、水際対策と言いながらも、中途半端で、しかも、かなり遅れてからの対応だったので、
「水際対策でも何でもない」
という状況になり、その後に出された、
「緊急事態宣言」
というものも、後手後手に回ることで、
「実際に、予期していた成果には程遠かった」
といってもいいのではないだろうか?
あれから、三、四年に渡って、ウイルスは何度も変異を繰り返しながら、決してなくなることはないのだった。
しかも、そんな状態において、実際に緊急事態宣言というものが、どういうものだったのかというと、
「とにかく、中途半端だった」
といってもいいだろう。
確かに、日本国というのは、憲法で、
「戒厳令」
に近いような、
「ロックダウン」
を行うことはできない。
それをしようとすると、
「基本的人権の尊重」
という、憲法の精神を崩すことになり、
「社会規範が成り立たない」
ということになってしまうだろう。
そんなことは、分かっていることであり、
「世界的なパンデミック」
を、本来なら、
「有事」
として捉え、憲法に違反しない程度で、ギリギリの宣言実行が必要だったのではないだろうか。
すべてを中途半端にしてしまうと、ロクなことはない。
結果として、
「何もしていないのと同じ」
という結果しか生まないのだ。
だから、国民から見れば、
「やってますアピール」
でしかないと思われるのがオチだというものだ。
「一体、政府は誰に気を遣っているというのか?」
政府が本当に国民のことを考えている」
というのであれば、少々強引であっても、
「やる時はやる」
という態度を示さないとダメなのだ。
中途半端にダラダラするだけで、その分、期間が長くなると、持たない会社であったり、市民生活だったりする。
本当であれば、ああいう宣言は、期間を決めて、
「いついつまでに、どの段階まで終わらせる」
という、目標を立てて、それに向かって、
「一致団結」
というのであれば、少なくとも、その期間は、国民の協力するはずだ。
「いつになるか分からない」
などと言われてしまっては、自分たちで、
「いつまでなら耐えられる」
という大まかな期間を企業ごとに決めているはずで、それがなければ、
「企業としての存在意義がない」
というくらいになるに違いない。
そんなことを考えていると、
「国家というものが、どのようなものなのか?」
という指標でもあったりする。
この危機を乗り越えるのは難しいだろうが、少なくとも、国がリーダーシップをとって、取りまとめるのは当たり前。
「だって、世間が混乱するのは当たり前。皆自分の立場を守ろうと考えるからだ」
というのだ。
しかも、それぞれの業界で、守るべきものや、優先順位が違っている。
優先順位の方が、まだ共通しているかも知れないが、どうしても、なかなか難しいところもあるに違いない。
問題は、
「政府が、どうしていいか分からないのは分かるが、それ以上に、国民や企業は、応報がないのだから、その正確な情報を政府がとりまとめ、国民の方針を決める」
というのが大切なのだ。
選挙事務所
最近では、ここ数日のことに限っていえば、少しいつもの通りが普段より暗く感じられた。街灯は明るいはずなのに、どうしても、暗く感じられることで、その一帯が狭く感じるほどになっていたのだ。
だから、できている影も、それほど大きなものでなく、広さが限定されるのは、
「中途半端な明るさと、真っ暗になる境界との間が、次第にせまくなっているように見える」
ということからだった。
小さく見えるということは、それだけでなく、見えていうものが、次第に、
「遠くに見える」
という錯覚も生みだして、
「夜のとばり」
というものを、ハッキリと感じられるのだった。
そんな夜の時間が、次第に短くなっていくのは、特にここ数日で感じるようになってきた。
つい一か月くらい前までは、まだまだ、夜は寒かった。
その寒さに打ち震えるように、ゆっくりとしか動けなかったあの頃に比べて、今は夜でも、
「歩けば、額に汗が滲む」
というくらいになっているのであった。
歩いていくと、その先に見えるのは、下手をすると、
「何かが蠢いている」
という感覚ではないだろうか?
昔のような、
「電柱に裸電球」
などという、それこそ、
「昭和の古き良き時代」
を思わせるような、ところであった。
このあたりは、住宅地ということもあり、
「閑静な一帯」
といってもいいだろう、
昔からの、住宅地と、マンション地域、さらに、平成初期くらいにできた、いわゆる、
「新興住宅地区」
と、それぞれに、区画整理されている。
それぞれの居住区で、問題が発生することもなく、それぞれで運営している自治体における、
「町内会」
のようなものが、きちっと運営されていて、実際に、それほど大きな問題が発生することもない、
「閑静な住宅街」
が形成されているのだった。
あれは、
「世界的なパンデミック」
というものが発生し、世の中では、
「閑静な住宅街」
以外のところは、かなり、その佇まいを異にするところばかりだった。
特に、街中にある繁華街などは、人の賑わいが、バロメーターであったのに、
「人の流れを抑制する」
というような、政府からの要請があり、実際に、歩く人もほとんどおらず、店を開けていても、誰も入ってこないような状態だった。
何といっても、政府が最初に行った市民生活に対しての対策が、
「全国、小中学校への、休校要請」
だったのだ。
もちろん、政府の政策としては、
「水際対策の徹底」
ということを行う必要があった。
しかし、
「甘く見ていた」
ということもあって、結果として、水際対策と言いながらも、中途半端で、しかも、かなり遅れてからの対応だったので、
「水際対策でも何でもない」
という状況になり、その後に出された、
「緊急事態宣言」
というものも、後手後手に回ることで、
「実際に、予期していた成果には程遠かった」
といってもいいのではないだろうか?
あれから、三、四年に渡って、ウイルスは何度も変異を繰り返しながら、決してなくなることはないのだった。
しかも、そんな状態において、実際に緊急事態宣言というものが、どういうものだったのかというと、
「とにかく、中途半端だった」
といってもいいだろう。
確かに、日本国というのは、憲法で、
「戒厳令」
に近いような、
「ロックダウン」
を行うことはできない。
それをしようとすると、
「基本的人権の尊重」
という、憲法の精神を崩すことになり、
「社会規範が成り立たない」
ということになってしまうだろう。
そんなことは、分かっていることであり、
「世界的なパンデミック」
を、本来なら、
「有事」
として捉え、憲法に違反しない程度で、ギリギリの宣言実行が必要だったのではないだろうか。
すべてを中途半端にしてしまうと、ロクなことはない。
結果として、
「何もしていないのと同じ」
という結果しか生まないのだ。
だから、国民から見れば、
「やってますアピール」
でしかないと思われるのがオチだというものだ。
「一体、政府は誰に気を遣っているというのか?」
政府が本当に国民のことを考えている」
というのであれば、少々強引であっても、
「やる時はやる」
という態度を示さないとダメなのだ。
中途半端にダラダラするだけで、その分、期間が長くなると、持たない会社であったり、市民生活だったりする。
本当であれば、ああいう宣言は、期間を決めて、
「いついつまでに、どの段階まで終わらせる」
という、目標を立てて、それに向かって、
「一致団結」
というのであれば、少なくとも、その期間は、国民の協力するはずだ。
「いつになるか分からない」
などと言われてしまっては、自分たちで、
「いつまでなら耐えられる」
という大まかな期間を企業ごとに決めているはずで、それがなければ、
「企業としての存在意義がない」
というくらいになるに違いない。
そんなことを考えていると、
「国家というものが、どのようなものなのか?」
という指標でもあったりする。
この危機を乗り越えるのは難しいだろうが、少なくとも、国がリーダーシップをとって、取りまとめるのは当たり前。
「だって、世間が混乱するのは当たり前。皆自分の立場を守ろうと考えるからだ」
というのだ。
しかも、それぞれの業界で、守るべきものや、優先順位が違っている。
優先順位の方が、まだ共通しているかも知れないが、どうしても、なかなか難しいところもあるに違いない。
問題は、
「政府が、どうしていいか分からないのは分かるが、それ以上に、国民や企業は、応報がないのだから、その正確な情報を政府がとりまとめ、国民の方針を決める」
というのが大切なのだ。
作品名:力の均衡による殺人計画 作家名:森本晃次