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ゆずは

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 ということではあったが、担任の先生などが、一応、努力のようなことをしてはくれるが、大人になっての失恋は、誰も助けてはくれない。
 そもそも、本人が、
「失恋して苦しんでいるのを、表に出したくない」
 と思っていればなおさらだ。
 失恋の痛手は、人によっては、まわりの人にも分かってほしいと思っている人もいるだろう。
 しかし、それを分かってもらおうとしても、結局、それができるわけでもなく、
「失恋というのは、一人で乗り越えるしかない」
 という、共通の結論となるのだ。
 特に、
「失恋の痛手というのは、人によって違う。一週間くらいで立ち直る人もいるが、一年以上も苦しむ人がいる」
 ということである。
 これは、同じ人でも、
「一回目と二回目で違う」
 という経験上のことからなのかも知れないし、
「相手によって違う」
 という、個別対応ということで考えられることなのかも知れない。
 また、何度も、
「恋愛をしては、失恋を繰り返している人は、安定的に、毎回一年以上苦しむ」
 という人もいるだろう。
 それは人それぞれであり、考えさせられるところであった。
 ただ、そのメカニズムは同じであって、
「最初に、算数における1+1=2のような公式を、理解することができるかどうかによって決まってくる」
 というようなもので、
 要するに、
「失恋に至ったその理由が、分かるか分からないか?」
 ということに掛かっている。
 どれだけ苦しんでも分からない場合は、
「どこで割り切るか?」
 ということが重要にいなるということである。
「どうして失恋に至ったのか?」
 それがどうしても分からない。
「1+1=2」
 のように、最初に感じることができれば、そこを悩まずに行けるのだが、算数の時には、ほとんどの人が悩まずに通り過ぎたその場所を、
「どうして、大人になると、そう簡単に通り越えてくれないのだ?」
 と思うのだ。
 小学生だったら、きっと何でも受け入れるのだろう。それらしい知識を持っていないことで、
「素直に何でも受け入れる」
 という体制ができているに違いない。
 しかし、大人になったとはいえ、恋愛に関しては、ほぼ知らない人が失恋しても、すぐには受け入れられないだろう。
 もちろん、
「算数と恋愛は違う」
 と言われればそれまでなのだろうが、それ以上に、
「自分は今までに、恋愛以外のことで、場数を踏んできている」
 という自信過剰な部分があるのかも知れない。
 それに、子供というのは、まだ思春期にもなっていないことで、
「どんなことでも、素直に受け入れる」
 という習性のようなものを持っていて、大人になると、その感覚がマヒしてしまっているのではないだろうか?
 その分け目となるのが、思春期という時期であり、
「素直に受け入れる」
 ということができなくなっているのかも知れない。
 確かに、いろいろな経験や、口伝などから、勉強や体験したことは、子供の頃とはまったく違う。しかも、経験においては、圧倒的に違っているのだから、
「それが大人なんだ」
 ということになればそれも当たり前のことである。
 特に、大人になってからというのは、自分の中で、
「許せない壁」
 というような、結界を誰もが持っているのではないかと思うのだ。
 それは、誰にも侵すことのできないもので、
「その結界をいかに自分だけで突破できるか?」
 ということが問題となるのだ。
 特に、
「恋愛」
 というものは、子供の頃には基本的には存在しない。
 思春期を経てからでしかありえないことなのだ。
「恋愛」
 というものを、そもそも知っているのかどうか?
 ということが問題なのではないだろうか?
 恋愛というのは、その言葉を切り離して、
「恋」と「愛」という言葉に分けることができる。
 確かに違うものではあるが、この二つは、
「似て非なるもの」
 といってもいいくらいに、しかも、
「相対しているものだ」
 と言ってもいいのではないだろうか?
 よく言われることとして、最初に人を好きになってから陥るのが、
「恋」
 というものであり、それが、
「愛」
 というものに変化していくと、恋というものは、お役御免ということになり、消え去るというような話であった。
 だから、
「恋の発展形が愛だ」
 と言っても過言ではないだろう。
 そういって、反対意見をいう人は、たぶん、そんなにはいないだろうが、
「なぜ、そうなるのか?」
 ということを聴かれると、何も言えなくなるのではないだろうか?
 恋愛が失敗に終わり、どんな形であれ、
「失恋してしまった」
 ということになると、絶対に、必ず一度は、自分を責めるものである。
 それは、
「相手がこちらを振った場合」
「こちらが相手を振った場合」
「自然消滅する場合」
 という、大きく分けるとこの3つになるだろう、
 もう一つとして、
「最初から、どうすることもできないほどの、難しい状況での恋愛だったのだ」
 というものであれば、失恋に対しての、苦しみは他に比べてないのかも知れない。
 反省点があるとすれば、
「最初から恋愛などしなければよかった。相手が悪かったんだ」
 ということになるのだろうが、それにしても、最初の段階は通りすぎるだろう。
 しかし、この場合は、結果は一つしかない。
「最初の段階では、それほど悩むことはない」
 ということだ。
 逆にいえば、
「最初の段階をまったく無傷で乗り越えられるとすれば、このパターンの時しかありえない」
 と言えるだろう。
 だが、このパターンの時は、最初から、
「恋愛というものをしていたわけではない」
 ということで、
「恋愛」
 という発想から、先に進んだわけではないということになる。
 それを考えると、
「恋愛というものは、苦悩というものから逃れられないものだ」
 ということになるのだ。
「1+1=2」
 というものを、簡単に乗り越えてきたくせに、大人になるとそれができない。
「大人になると、子供に劣るのではないか?」
 とも思えてくるが、それ以上に。
「大人になるということは、理屈を求める動物になってしまうということだ」
 なのである。
 それが、
「人間の進化」
 ということであり、
「人間は、考える葦である」
 といった人がいたが、
「悩むというのは、考えることで生まれてくるものだ」
 ともいえるだろう。
 それを考えると、
「悩みというのが、どういうものなのか?」
 ということを考えてみると、
「考えることから始まってしまっているというのが、そもそもの苦悩の出発点なのではないだろうか?」
 と考えるのであった。
 確かに、
「苦悩というのが、どういうことになるのか?」
 ということを考えると、
「考えることの、延長線上なのではないだろうか?」
 ということが考えられるのである。
 それを思うと、
「人が考え、苦悩するのには、二段階あるわけで、それだけ、人によって、その深さや重さの近いは顕著だ」
 と言えるのではないだろうか?
 それを思うと、
作品名:ゆずは 作家名:森本晃次