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ゆずは

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 こういう時にはいつも、声を上げるやつで、これもお約束というか、いつもの、
「通常運手だった」
 と言えるだろう。
「よし、行ってみよう」
 という声を聴いて、板倉は、ホッとした。
 きっと、心の中で、
「誰も言い出さなかったら、どうしよう」
 と思っていたからだ。
 最終的には、自分が声を出すしかないのだが、それはあくまでも、
「最後の手段」
 だったのだ。
 それを考えると、
「じゃあ、行ってみよう」
 と言ってくれたのは、心強かった。
 たあだ、いつもは、
「よし、行ってみよう」
 というのに、その日は、
「じゃあ」
 という言葉が最初に来たのだ。
 その違いを、普段だったら、意識するほどではないのだろうが、意識しないどころか、大人になってまで覚えているのは、その時の友達が異常だったからなのか、それとも、事故への意識が強かったからなのだろうか、正直、よくわかっていなかったのだ。
 事故現場に行ってみると、その悲惨さを物語るように、異様な臭いが立ち込めていた。
「まるで、ゴムでも焼くような嫌な臭い」
 だったのだが、なるほど、車から火が上がっていて、タイヤも燃えているではないか。
 それを見た瞬間、
「ああ、もう誰も生きてはいないよな」
 と子供心に思ったものだった。
 救急車のサイレンと、パトカーのサイレンがほぼ同時に聞こえ、まるで、
「サイレンによる、音のカオス」
 が出来上がっていたのだ。
「サイレンというのは、救急車の方が、印象的だな」
 と、その時初めて感じた。
 そもそも、これくらいの大事故でもない限り、救急車とパトカーが一緒に来ることはない。
 しかも、少ししてから、消防車の出動してきた。
 さすがに燃えている光景を見て、通報したのだろう。
 ということは、
「最初から燃えていたわけではない」
 ということだろう。
 野次馬があつまり掛けた時は、そこまで火がひどくなくて、気付かなかっただけかも知れない。
 しかし、この、
「ゴムの焼けるような臭い」
 が立ち込めてきた時、
「これはヤバイ」
 と感じたのだろう。
 実際に消防車がやってきて、消防活動に入った時は、幸いにも、そこまでひどかったわけではないのか、半時間くらいで消火できたようだ。
 しかし、
「下手をすれば、くすぶっている火が残っているかも知れない」
 と思ったのか、消防団員は、少しの間、様子を見ていた。
 それは、消防団としては当たり前のことで、
「さすが、火消しに特化した集団だ」
 と思わせたのだった。
 事故が発生してから、けが人の方は、担架に乗せられ、救急車に乗せられ、急いで、サイレンを鳴らしながら、病院へと急行したようだ。
 これが、実に手際よく行われたので、
「あっという間の出来事だ」
 と言えるのだろうが、その場の場面を思い起こすと、結構なことが行われたのだ。
 感覚的に、
「皆てきぱきと動いていたので、電光石火として、あっという間だったように思えたのであるか」
 あるいは、
「急いで動いたことが、まるで残像のように、コマ送りになり、そのせいで、感覚まで、刻まれたように思うことで、あっという間だったように思えたのではないだろうか?」
 とも感じられた。
 どっちもどっち、理屈的には間違っていないような気がするので、そのあたりは問題ないと言ってもいいだろう。
 だが、一ついえば、
「あの時、実際に、けが人の悲惨な状況を見たと思うのだが、光景を思い出そうとすると、どうしても引っかかって思い出せない」
 というのだ。
 それは、
「本当に見たのかどうなのか?」
 という意識があったのか、なかったのか、自分でも正直分からない。
 それを思うと、
「夢であってほしい」
 あるいは、
「夢だったのではないだろうか?」
 というような、思い出した時、どっちだったのかという、両面からの感覚が両方、自分の中に残っているのである。
 そんなことを考えていると、
「最近になって、また思い出すようになった」
 ということを考えると、過去にも思い出したことが何度かあったという意識があり、そのうちに、
「定期的に思い出していたのではないか?」
 と考えるようになると、まるで途中を輪切りにしたような感覚になるので、それぞれの間に起こったことと比較すると、
「どっちが昔だったのか?」
 ということを考えた時、
「その昔」
 という感覚が遠くなるほど曖昧になるのだが、こういう時でないと感じない、
「かつての記憶が、輪切り状態になって、いくつも存在している」
 という感覚から、
「どちらの記憶が、新しいものなのだろう?」
 ということを考えたとしても、それはあくまでも、曖昧になったとしても当たり前のことであり、そもそも、
「いつが過去のことなのか?」
 などという発想を、そんなに考えることなどないと思うと、
「まるで健忘症のような感覚に陥る」
 というのも、
「実に無理もないことではない」
 と感じるのだった。
 実際に、その光景が、トラウマになってしまっていて、実は光景よりも、
「臭い」
 というものに、敏感になった気がするのだ。
 その時の光景は、悲惨なもので、確か、オイルが漏れていたのか、嫌な臭いがした。
 しかし、その時の光景を思い出そうとした時に、想像される臭いは、
「オイルの臭い」
 ではなかった。
 自覚しているその臭いは、何か、
「酸っぱいような臭い」
 であった。
 あの時の雰囲気で、酸っぱいような臭いが滲んでいるわけはないのに、なぜなのか、自分でもしばらくは分からなかった。
 それが分かるようになってきたのが、ちょうど、中学の頃だっただろうか? 今から思えば奇妙な経験だった。
 あれは、女の子も混じって一緒に表で遊んでいたのだが、服装は皆学生服だったので、そんなに激しい運動でもなかった。
 ちょっといえば、軽い、ハンドボールのようなもので、体力の温存であったり、手を抜こうと思えばいくらでもできるような感じだった。
 しかし、ハンドボールをしていると、中には、
「手を抜くということを知らない女の子」
 もいたようで、しかも、
「一つのことに集中すると、まわりがまったく見えないくなる」
 という女の子で、その子からすれば、
「楽しいから、気になっていなかった」
 ということであろう。
「何か、酸っぱいような、それでいて、鉄分を含んだような臭いがするな」
 とは思っていた。
 その時は、まだ、小学生の時に、遭遇した、あの悲惨な事故のイメージが頭の中に残っていたのだ。
 その時、すぐに、
「これは、血の臭いだ」
 ということは、ピンと来たのだが、周りを見ても、この状況でも、
「どうして、血の臭いなんかがするのだろう?」
 という思いに至ったのだ。
 思春期に入っていたが、その時はまだ、
「女の子の生理」
 というものを理解していなかった。
「男と女の身体は、まったく違ってできている」
 ということは、えっちなことで聞いていたので、歪んだ形での知識として頭に入っていたのだった。
 その時に、他の人も気付いたのか、露骨に嫌な顔をするやつもいた。
 そいつは、結構ませていたので、生理くらいのことは知っていただろう。
作品名:ゆずは 作家名:森本晃次