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ゆずは

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 という猛者もいるだろうが、普通の人であれば、数十分の賢者モードを過ごし、その日は、できても、後一回とかその程度であろう。
 さらに、どうしても、いくら身体の相性がいいと言っても、毎回同じ人を相手にしていると、
「マンネリ化してしまう」
 という。
 それは、本当のマンネリ化ということもあれば、
「身体に飽きが来る」
 という場合もあるだろう。
 その飽きを感じさせないテクニックが、つかさにはあった。
 しかし、その分、男の方も、そのテクニックに溺れ、
「それが最大に癒しだ」
 と思って、結構短期間に通い続けると、金銭的な問題も絡んでくることで、
「このままでいいのか?」
 と考えるようになる。
 普通の人だと、風俗で何度も賢者モードを感じていれば、次第に、
「これでいいのか?」
 というのを感じるようになるので、2,3回くらいは通うことがあっても、次からは、女の子を変えるか、それとも店を変えるかして、変化を持たせようと考えるだろう。
 同じ店であれば、今までの贔屓の子に対して、
「後ろめたさ」
 のようなこともあったりするので、
「次回は、別のお店にしてみよう」
 と考えたりするものだ。
 それも気分転換。そもそも、お金を払うのは、こっちなのだ。
 だが、昔のように、
「ストレス解消」
 というものが、一番の目的であれば、そのあたりの罪悪感はないだろう。
 しかし、今は、女の子もある程度楽しんでいる子も多いので、男性側も、甘んじてそのサービスを受けることに対して、少なからずの罪悪感というものは、ないのだった。
 ただ、板倉は、少し、つかさに、
「のめり込みすぎた」
 のかも知れない。
 板倉も男なので、多少なりとも、賢者モードはあった。
 だが、そのせいで、
「飽きが来る」
 という感覚があったわけではない。
 単純に、
「つかさの身体に飽きてしまった」
 ということであった。
 それに我に返ると、金銭的な問題もあった。そうなると、
「しばらく、風俗はいいかな?」
 と思うのだ、
 罪悪感がないのだから、
「卒業」
 ということが考えていない。
 あくまでもしばらく遠ざかってみるということになるのだが、必要以上に、身体がいうことを利かないということになると、しばらくというのが、どれくらいになるのかは、想像もつかなかったりした。
 そんなことを考えていると、
「このままでは、風俗嬢相手でなければ、身体が反応しなくなるのでは?」
 という懸念も出てきたのだ。
 それは、さすがに避けなければならない。
「女を抱きたいと思うと、そのたびに、巨額の金がいると思うと、これは大変だ」
 ということである。
 ある程度の年齢になれば、かなりの間隔をあけてでもいいのだろうが、まだ二十代などというと、性欲がもりもりと言ってもいい時期だ。
 そんな時期に、自分が満足できるだけの回数、風俗にお金を落とすということになると、「お金がいくらあっても、足りない」
 ということになるのだ。
 そういう意味で、板倉のように、
「賢者モード」
 なのか、
「飽和感覚」
 なのか分からないが、
「しばらく、風俗から離れてみる」
 という感覚も、間違っていないに違いない。
  ついこの間まで、
「早く、つかさに逢いたい」
 と思っていた自分が、かなり遠い過去のことのようで、その感覚は本当に、かなり昔の感覚である。
 板倉は、時々、
「時系列」
 というものの感覚がマヒしてくることがある。
 つまりは、
「あれが、昨日のことだったのか、それ以前のことだったのか、曖昧になってくる」
 というものである。
 つまり、ある出来事を思い出したとする。
 その出来事が、自分にとってセンセーショナルなものだったのか、それとも、そこまでではなかったのかということになるのだろうが、その思い出したことの、起こった時期というのが、曖昧な気分になるということだった。
「じゃあ、それはいつのことを思い出す時なのか?」
 ということを考えた時、
「ここ2,3日のことだったのだろうが、それが、いつだったのかが曖昧に感じられるのだ」
 というものだが、近い過去であればあるほど、
「自分が、健忘症なのでは?」
 と思えてくると、その曖昧さが、次第に、自信喪失につながってくるのだった。
 健忘症というものが、どのような影響を自分に与えるかというのが、理解できなかった。
 年齢的にも、普通ならありえないと思うと、
「気にすることはないのか?」
 と感じて、それ以上は考えないようにした。
 それはいいことだった。
 確かに、若いとは言っても、
「若年性健忘症」
 というのがあるくらいなので、二十代でも、十分に健忘症になることだってある。
 しかし、それこそ、稀なことであって、
「健忘症ではないだろうか?」
 と思ったとしても、それはあくまでも、
「気のせいだ」
 と言ってもいいだろう。
 さらに、板倉は性格的に、
「優柔不断」
 なところがあった。
 そんな性格の人間が、健忘症になるというのは、あまり考えられない。
 それよりも、
「気が散りやすいことで、たくさんの感情が湧いてくるため、頭の中がカオスになり、それらを整理できないのではないだろうか?」
 と考えてみると、何となく、理屈が分かってくるような気がした。
 というのも、
 特に、板倉というのは、よく子供の頃のことを思い出したりする。
 その思い出すこととしては、
「子供の頃に起こった、センセーショナルな出来事であるが、今思い出して、センセーショナルだったという意識は、小学生の時に見た、交通事故の光景だっただろうか?」
 あれは、学校が終わって帰る時、まだ、ランドセルを背負っていたので、小学三年生の頃だっただろうか、
 学校からの帰り道、遠くの方から、
「ガチャン」
 という音が聞こえた。
 いや、そんなハッキリとした音ではなく、
「言葉で表現するのが難しい」
 というような、低音で鈍い、表現ができないような音がした。
 その瞬間、身体にずっしりと何かがのしかかったような音が聞えたので、非常に溜まらあかい音だったのだ。
「何かが当たった音だよな」
 と一緒に帰っていた友達がそういった。
「ああ、あの音は非常に溜まらない音なんじゃないか?」
 と言い出した。
 今から思えば、
「何か鉛のような重たいものが、やわらかいものを押しつぶしたかのような音だ」
 ということで、すぐに交通事故を思い浮べるのだが、小学三年生だったあの頃に、
「交通事故」
 という印象が果たして浮かんできたのかどうか、自分でもよく分からない感覚だったといえるだろう。
 そのうちに、後ろの方で、ワイワイ人が集まっているのを感じた。
「こりゃあ、大変だ。救急車を呼ばないと」
 という言葉が聞えたので、
「ああ、誰かケガをした人がいるんだ」
 ということは分かった。
 最初は無視して帰ろうかと思ったが、
「誰かが、見に行くことを言い出せば、自分も行こう」
 という、感覚になった。
 それでも、結局は、
「他力本願」
 なのだ。
 そういう時に限って、その日も声を上げる子がいた。
作品名:ゆずは 作家名:森本晃次