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洗脳と洗礼

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「無理がない」
 ということを考えると、まずは、
「グループ交際でもいい」
 と思うようになったのだった。
 確かに大学入学の時は、その開放感から、
「今なら何だってできるんじゃないか?」
 とすら思えていた。
 趣味よりも何よりも、
「彼女がほしい」
 と思うのも無理もないことで、何と言っても、
「彼女を作るということが、何をするにしても、難しい」
 と思っていたのだ。
 だから、
「今彼女を作ることができなければ、このまま一生作ろうとしても、できる自信がなくなるのではないか?」
 ということまで考えていたのだ。
 そんな中において一つ気になっていたのが、
「本当に彼女ができなければどうしよう?」
 という思いは、正直あった。
 しかし、逆に、
「できてしまったら?」
 という思いも無きにしも非ずだったのだ。
 というのは、自分が好きになる女の子というと、
「どこか、影があるような女性」
 しか頭に浮かんでこなかった。
 自分が、
「イケメンではない」
 という自覚があり、その思いがあるおかげで、
「明るくて、目立つような女の子が自分と一緒にいるところが、想像などできるはずもない」
 と感じるのだった。
 確かにイケメンというと、
 なかなか目立つような女性と一緒にいるのが、その場にも映えるということで、山岸は、それほど、
「キレイな女性は、好きではない」
 と思っていた。
 それよりも、
「可愛い女の子、下手をすれば、影があるような女の子でもいい」
 と感じていた。
 というのは、結局は、
「自分はイケメンではない」
 という、
「一周回って帰ってくる話」
 という感じで思うのだった。
「自分をわきまえている」
 と言えばそれまでなのだが、それよりも、結局、
「自分に自信が持てないからだ」
 といってもいいだろう。
 そうなると、逆に、
「自信過剰な方が、自分らしい」
 と思えることで、
「好きな人は、目立たない女の子だ」
 ということを、自己暗示に掛けているような気がした。
 それでも、その思いはずっと変わらないことから、
「案外と、的を得ていたのかも知れない」
 と思うようになっていたのだった。
 自分にとって、
「どれだけ好きになれる女性が、自分の目の前に現れてくれるか?」
 ということを考えると、結局、
「それだけたくさんの女性と、友達としてでもいいから、知り合っておければ、それがいずれ生きてくる」
 と思うようになってきたのだった。
 だから、
「大学に入ってから、とにかく友達を作りまくる」
 ということを考えたのであった。
 その大学では、想像はしていたが、
「友達はたくさんできたが、彼女になるような人はいないようだ」
 と思ったのだ。
 最初は、
「どうして彼女ができないのか?」
 ということが気になったので、他の友達に話を聴いてみたが、
「お前は、目が露骨なんだよな」
 と言われた。
 さすがに、これだけ直球なことを、すぐに言われたわけではない。
 むしろ、友達は聞かれることに、戸惑いがあったようだ。
 きっと、
「すべてを話そうとすれば、どう回りくどい言い方をしても、こんな言い方にしかならない」
 ということを分かっていたのか、その友達は、
「意を決して」
 話をしてくれたのだった。
 大学に入るとすぐにできた友達で、自分では、
「親友だ」
 と思っているが、相手がどう思っているかということまでは、分かるわけではなかった。
 親友ということを分かってくれているのかどうか。確かに、それを思うと、
「男女ともに、僕のことを本当に好きになってくれるなんて人、いるんだろうか?」
 と感じるのだった。
 誰が好きなのか?」
 ということは、親友は、結構気づくといっていた。
「だけど、お前ほど分かりやすいやつはいないんだけど、そのわりに、その中でもどのタイプが本当に好きなのかというのが分からないんだよな」
 と言っていた。
 好きな人を考えてみると、本当に好きな人を想像してみると、できないと感じることがある。
 それが、
「夢と似ているのではないか?」
 と考える時であった。
 夢というのは、
「目が覚める数秒前に、ちょとっこ見るものだ」
 という話であったり、
「夢を見るのは、眠りが浅いからだ」
 ということを言われたししているということを聴いたことがあった。
 そんな夢というのは、自分の中で、
「こうではいか?」
 ということを、いくつも考えさせてくれるものであった。
 まず一つは、
「夢というのは、眠っていて見る時と見ない時がある」
 ということについての考え方である。
「夢というのは、目が覚めるにしたがって、記憶から消えていくものである」
 と思うようになってきたが、それも、間違いではない気がするが、それよりも、
「どんな夢を覚えているか?」
 という時の方がきになってくる。
 ただ、この考えにおいては、
「夢を見ているというのは、本当は眠っている時というのは、絶えず見ている」
 という考えである。
 つまり、
「夢の世界というものが、本当に存在し、起きている瞬間以外は、夢の世界に入りこんでいるのではないか?」
 という考えであり、そうなると、
「実際に眠っている時間というのは、本当に存在しているのだろうか?」
 ということである。
 そう考えてみると、浮かんでくる、
「疑惑」
 というのは、
「夢の世界と、現実世界に、それぞれの自分が存在しているのではないか?」
 という考えだった。
 それは、人間の、
「多重人格性」
 というものが、実は同じ肉体の中に、
「表の世界用と、夢の世界用に存在している」
 という考え方だった。
 だが、そう考えると、何も、現実世界と、夢の世界だけというわけではなく、一種の、
「マルチバース理論」
 のようなものが考えられないか?
 ということである。
 それが、無限の世界であり、そこに時間軸が入り込むと、
「次の瞬間の可能性は無限だ」
 と言われることと同じで、無限の広がりというものの証明ではないか?
 と考えられるのであった。
 ただ、実際に、
「自分で理解できるもう一つの世界は、夢の世界でしかないのだ」
 と言われているのだとすると、そこに存在している
「もう一つの世界」
 というのは、
「本当に夢の世界だけしかない」
 と思える。
 と考えてみたが、次の瞬間、
「待てよ?」
 と思った。
 それが、
「マトリョシカ人形」
 の考え方であったり、
「合わせ鏡」
 の考え方であったりするのだ。
 合わせ鏡のように、目の前と後ろに置いた鏡の間に自分を置くことで、半永久的につながっていて映っているものは、
「絶対にゼロにはならず、限りなくゼロに近いもの」
 ということで存在しているその世界は、
「本当は二つしかないのに。どんどん広がりを見せて、最後には、
「無限というものを作り出している」
 というものだ。
 それは、必ず、二つでしかない。
 一つであっても三つ以上でもあっても、その条件には当てはまらないということだ。
 だから、現実と夢の世界しかなく、そこには、
「遊びの部分」
 というのは、存在しないのだ。
作品名:洗脳と洗礼 作家名:森本晃次