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洗脳と洗礼

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 山岸の思春期は他の人に比べて、若干遅かったので、まわりの変化を客観的に見ていたので、
「何が楽しいというのだろう?」
 と、楽しそうにはしているが、どうしても、背伸びしているようにしか見えず、
「俺には、そんな変化がなくてよかった」
 と思ったほどだった。
 しかし、それはあくまでも、勝手な思い込みであり、実際には、自分も知らず知らずのうちに、
「思春期の波」
 に、飲み込まれていくのであった。
 中学時代の友達は、
「ニキビ」
 なのか、
「吹き出物」
 なのか、顔に汚いおできができている。
 自分は、なりたくないと思っていたのに、気が付けば、自分もひどい顔になっていた。
 その時に、何やら、焦りのようなものがあった。それは、まわりが思春期になっていると思ったその時よりも、
「さらにひどい」
 と思える焦りだったのだが、その理由は分かっていた。
 人と違う、しかも、遅れて迎える思春期では、
「自分だけの時期」
 ということと、
「思春期というのは、始まる時期が違っていても、終わる時期は変わらない」
 と思っていたからだ。
 つまりは、
「思春期という時期は、皆平等に与えられるものだ」
 と考えているのであれば、遅く入ってしまったということは、他の人よりも、濃厚な時期ではないかと感じたのだ。
 それが、耐えられるものであればいいが、あまりにも急速に襲ってくることで、自分が本来感じる感覚をねじ曲がった形で感じてしまうとすれば、それが正しいということになるのだろうか?
 と、そんな風に感じてしまうからだった。
 そんな思春期の中で、山岸が感じたのが、
「周りの男子に比べて。俺って毛深くないんだな」
 という思いであった。
 気持ちとしては、
「大人の男になりたい」
 という思いがあったはずなのに、自分よりも先に思春期を迎えた他の男子を見ていて、毛深くなったり、ニキビのようなものができてくるのを見ると、
「気持ち悪い」
 としか思えなくなっていたのだ。
「そんなものを見せられて気持ちのいいわけはない」
 と、体育の授業の前の、更衣室着替えの時間には、たまらなかったものだ。
 しかも、教室中に蔓延している、
「男臭」
 と言えばいいのか、中には香水のような臭いまで混ざっていて、
「何度吐きそうだ」
 と思ったことか。
 そんなことを考えていると、
「学校の更衣室など、気持ち悪い以外の何物でもない」
 ということであった。
「それにしても、何だ、この香水の匂いは?」
 と感じていた。
 確かに香水というのは、風呂に浸かるという習慣のない地域の人が、体臭をごまかすという意味で使用しているということは聴いたことはあるが、だからといって、悪臭とませれば、さらに臭いがきつくなるということになりはしないか?
 ということであった。
 だから、その頃から山岸は、外人が嫌いだった。
「日本に来るんだったら、日本の文化に馴染む覚悟でくればいい」
 と特に最近になって思うようになった。
 さすがに思春期の頃には、まだまあ街中でも、外人というと珍しかったので、それでもどこかに、
「敬意を表する」
 という気持ちもあったが、今のように、
「政府の経済対策の悪さのせいで、国の経済が停滞したことで、インバウンドなどと言って。外人どもに依存しなければいけなくなったというのは、実に嘆かわしいことなのである」
 と思うようになってからというもの、
「いい加減にしてくれ」
 と思うほど、今は、外人どもが街に溢れている。
 十数年前くらいから、やってくる隣国の連中などは、
「爆買い」
 などといって、観光ではなく、まるで嫌がらせのようなことをしているのに、それでも、政府は、
「インバウンド」
 などというものを押し付けてくる。
 それを考えると、
「何で、こんな時代になったんだ?」
 と言いたいほどの光景が、街に溢れているではないか?
 というのも、
「都心部の主要駅近くの、コンビニ、ファストフード、お土産屋さん」
 と言ったところのレジなどでは、どこの国の連中なのか分からないが、日本語もまともに通じないような連中がいるではないか。
 皆が皆悪いとは言わないが、どうも謙虚さが足りない気がする。
 日本人であれば、
「もっと、優しい接客をするのに」
 と思うと、外人どもは、どうしても、事務的で仕方がないと思うのだ。
 ただ、ハッキリとは分からないが、レジでのクレーマーは減ったかも知れない。
 クレームを言いたくても、完全に事務的にしかやっておらず、しかも、日本語もどこまで通じるか分からない連中に、
「どうせ何を言っても、相手は響かないんだ」
 と思うと、クレームをいう気にもならないかも知れない。
「外人どもが役立っているといえば、それくらいだろうか?」
 と、山岸は、
「自分がいつからこんなになったんだろう?」
 と思うほど、ある地点を境に、外人どもが嫌いになっていたのだ。
 それまでは、外人には、一定のリスペクトをしていた。
「母国から、出稼ぎのような形で家族と離れて、でかせぎに来ているんだ」
 と思ったものだが、
「外国人留学生」
 と言われる、東南アジア系の連中が来るようになって、どうにも嫌でしかなくなったのだ。
 やつらと、一番最初に接触した時、
「未開人じゃないか?」
 と感じることがあった。
 十年くらい前であったが、一番ビックリしたのは、
「トイレの使い方」
 というのが、図解で、トイレの扉に描かれていたのを見た時だった。
「何だ、これは?」
 と感じた。
「幼稚園の子供が、教えてもらうようなことを、外国に留学生ということでやってきた連中が分からないということか?」
 と思うと、
「世も末だ」
 と感じたものだ。
 要するに、
「文化が違う」
 ということなのであろうが、文化の違いというだけで片付けられるものなのだろうか?
 というのは、
「普通、別の国に行くのであれば、その国も風俗習慣をある程度学んだうえで行かなければ、自分が怖い」
 ということを感じないのだろうか?
 確かに、昔から、
「日本という国は治安が行き届いている」
 と言われてはきたが、あくまでも、
「命の危機に見舞われる」
 という状況にあるかどうかというのが問題だというだけのことであって、実際の風俗習慣とは違っているのではないかということである。
 そうではないと、その国に行っても、言葉が通じないというだけでもハンデなのに、生活習慣が少しでも違えば、相手はあからさまに不信感を抱き、
「完全に未開の地からやってきた連中だ」
 ということで、その気のあるなしに関わらず、態度には。
「見下している」
 という様子が出てくるに違いない。
「そんな文化や習慣が合わない連中」
 を受け入れる国も国である。
「海外の留学生を受け入れれば、国から補助金を出す」
 ということで、雇い主は、それはそれは、挙って、外人どもを雇うことだろう。
 普通の国民は、
「ああ、政府が政府の金で、補助しているんだから、いいじゃないか?」
 と思っているかも知れない。
 しかし、それでいいのだろうか?
 考えてもみてほしい。
作品名:洗脳と洗礼 作家名:森本晃次