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洗脳と洗礼

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「何が起こってもなんて考えていたのがウソのようだ」
 とばかりに、お互いの気持ちが、潤滑油を流したかのように、きれいに流れるようになっていたにも関わらず、最後には、
「もう、どうすることもできない」
 ということになるのであった。
 というのも、
「俺が言っていることが信じられない?」
 というのが、そもそも信じられない。
 それこそ、最初の頃だったら分からなくもないのに、今になって、何を言っているのだ?
 ということを考えてみると、
「俺が何を言ったというのだ?」
 ということを考え始めると、最初の頃であれば、分からなくもなかった。
「何があっても不思議のないこと」
 が、今になって襲ってくるという感覚になると、
「もう、俺たちは最後なんだ」
 という初めて、大きな壁のようなものが見えてくる気がするのだ。
 それを思うと、
「俺たちが、もうどうしようもないという状況に陥ったとすれば、それは、最初から、無理があったということなのだろうか?」
 と思えないでもない。
 最初から無理なものを、お互いに引っ張ってきたということは、だから、最初であれば、
「何が起こっても不思議はない」
 と感じるのかも知れない。
 と思うのだった。
 そんなことを考えていると、
「俺が悪かったのか?」
 とも思えてくる。
 最初から、
「無理なものは無理だ」
 ということを彼女は訴えていたのでじゃないか?
 それを必死になってなだめて、気持ちを一つにしてきたつもりだったが、実際には、
「お互いに無理を押し通してきて、相手を沼に引きずり込んできたのではないか?」
 と思うと、
「あなたの言っていることが信じられない」
 という言葉には、信憑性が感じられるのだ。
 今になれば、その時の事情も分かってきたような気がする。
 だから、
「今度誰か他の女と付き合う時は、自分を殺してでも、相手のことを考えるようにしたいものだ」
 と考えたが、それもあまりにも極端であり、間違いの下だったということを、理解していなかったのだ。

                 騙す女

 そんな時に知り合った、
「あいり」
 という女が、自分にとって、どれほど大切な人だったのかどうかということは正直分からない。
 しかし、自分にとって、少なくとも、
「つかさとの時の教訓が、自分にはある」
 と思っていたのだった。
 あいりを好きになった瞬間があるとすれば、いつだったのだろう?
 というよりも、
「あいりのことを本当に好きになった瞬間があったというのだろうか?」
 という思いが結構あったりする。
 というのも、
「後から考えれば、今までであれば、つかさの時にだって、好きになった瞬間というものを聴かれれば、いつだったのかということくらいは、答えられるような気がする」
 しかし、なぜかあいりの場合には考えられないのだ。
「ひょっとして、この時」
 というのはあるのだが、そのすべてがいつだったのか? ということになると、分からない。
 もちろん、すべてということになれば、誰にでも無理なのだが、
「できそうな気がする」
 と思うだけで、考えられるような気がするのだった。
 あいりのことが気になってから、
「どこを好きになったのか?」
 と思うようにいなった。
 というのも、今までからすれば、自分が好きになる相手とは、どこかが違っていたのだ。
「今までは、キレイ系の女性に対して、好きになることはなかったはずなのに」
 という思いだけはあるのだ。
 本当に自分の好きな女の子は、前述のような二つのタイプで、
「どこか陰のある清楚系の女の子」
 あるいは、
「明るくて、いつも笑っていることにまったくの違和感を感じることのない女の子」
 ということであった。
 前者が、本当に女として見ている人であろうが、後者は、どこか妹という感じがする子で、
「妹を相手にしている」
 というと、背徳感があるが、それがまたいいというと、モラルに欠けるということになるのだろう。
 しかし、あくまでも、
「自分が好きになるタイプ」
 ということなので、
「それを変に捻じ曲げた形で考えるのは、おかしなことだ」
 と言えるのではあるまいか。
 だが、どちらにしても、あいりは、そのどちらでもないのだ。
 ただ、キレイ系の女性独特の、市制の良さであったり、フェロモンの放出度であったりというのは、
「今まで気づかなかった」
 というだけで、
「本当は好きなタイプの女性として意識をしていたのかも知れない」
 と感じるのだろうが、果たしてその通りなのかというのも、曖昧なものだった。
 そんなことを考えていると、
「キレイ系が好かれるというのも分かる気がする」
 一つ考えられるものとして、
「かわいい系の女の子には、若い子必須という気がする」
 ということであり、
「キレイ系の女性は、少々年を重ねても、その美しさは色褪せない」
 ということから、
「自分よりも年上でも十分にいける」
 と思うからだった。
 女性の美しさを容姿や年齢に重ねてみるというのは失礼なことなのかも知れないが、それはあくまでも、
「本人の勝手な感覚」
 ということで、この場はお許しいただきたい。
 しかし、
「美しさ」
 というものと、
「自分が好きになる女性」
 というものは、見え方が違うということで、同じ線上で見てはいけないということになるのではないだろうか?
 と感じるのだった。
 好きになったのかどうかも分からずに、
「自分が気になって仕方のない相手だ」
 ということになると、その人を、
「絶対に、見限ってはいけない」
 という義務感というか、覚悟のようなものが芽生えてくるのを感じた。
 それを考えてみると、
「本当に覚悟が必要だ」
 と思うことに行きついてしまった。
 というのが、
「あいりという女性には、精神疾患がある」
 ということだということを人づてに聞いたのだ。
 本人に聞いてみると、
「もう少し仲良くなってから言おうと思った」
 というのだ。
 なぜかというと、
「あまり早い段階でいってしまうと、冷められてしまって、せっかく仲良くなりかかっているのに、うまくいかなくなってしまう」
 というのであった。
「なるほど」
 と思った。
 確かに、精神疾患などというと、その瞬間に、重くなってしまい、相手をする方にも、覚悟のようなものがいることは、疾患のある人には、独特の感性で分かるものだということを聴く。
 そんなことを考えてみると、
「あいりとは、覚悟を持って付き合うか、別れるかということを、この時点で決めておかないといけない」
 と感じた。
 しかし、そう思ったのは一瞬だった。
「俺に、あいりと放っておくようなこと、できるはずがない」
 と思ったのだ。
 そして次に感じたのが、
「俺は覚悟を決める」
 ということであった。
 覚悟を決めてから、どう考えるかということになると、
「俺は、好きになったから、覚悟を決めたのか、覚悟を決めたことで、自分が好きなんだという自覚が持てたのか?」
 ということを考えるようになると、
「俺は一体、どっちだったのか?」
作品名:洗脳と洗礼 作家名:森本晃次