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洗脳と洗礼

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                 別れた理由

 つかさと別れて、数年が経った時だった。
 つかさとは、
「結婚を前提に」
 という思いで付き合っていたのも、当然のことだ。
 最終的には、それが怖かったのか、つかさの方から、身を引くという形だったが、それはきれいごとで、
「俺から逃げたんだ」
 というのが真相だと、山岸は思っている。
 さすがに別れてから、尾を引いたのは、かなりのもので、今回は、転勤させてくれたことに感謝するくらいだった。
「今まで、付き合ったこともないような付き合い方してみたいな」
 とも思えるようになったのは、別れてから一年半、転勤してから、一年のことだった。
 少なくとも、
「もう、社内恋愛はこりごりだ」
 ということであった。
 そこで、山岸が考えたのが、
「結婚してしまえば、こんな思いすることはない」
 というものだった。
「結婚しても、ゴールではない。何が起こるか、夫婦間であれば、余計にそう思うだろう?」
 ということも分かっていたつもりだった。
 しかし、どうしても、
「目指すは、結婚」
 ということだったのだ。
「結婚するって、どういうことか分かっているのか?」
 と自問自答してみるが、一度もしたことがないので、分かるはずもない。
 ただ、
「ゴールではない」
 と思いながらも、
「ゴールであってほしい」
 という思い、さらには、
「ゴールだったら、面白くない」
 という思いとが交錯していた。
 後者の、
「面白い」
 というのは、その少し後から、自分のことを、
「芸術家肌なのではないか?」
 と感じるようになったからのもので、
「芸術家肌というのもそうだが、創作という、モノづくりということが、この俺は好きだし、似合っているのだろう」
 と考えるようになったからだと思うのだった。
 というのは、ショックがだいぶ冷めてきた頃、少しずつ気持ちに余裕が戻ってくると、
「俺は創作が基本的に好きなんだ」
 と思ったからだった。
 しかし、そもそも、芸術的なことや、創作などというものは、小学生の頃に、
「とっくの昔に捨ててきた」
 というものであった。
「何を捨てたのか?」
 ということであるが、捨てたというよりも、その頃の勉強を放棄したというだけのことであって、
「勉強なんて、その気になれば、いくらでもできる」
 ということだ。
 その気にならないと言えば聞こえがいいが、勉強しようという意思があってできないのは、
「ただ、逃げているだけ」
 ということである。
「金がないから」
 という人もいうだろう。
 しかし、勉強して趣味として継続できるものの中で、芸術関係としても、できることはいくらでもある。
 例えば、
「文章を書く」
 というのは、正直金がかからない。筆記具さえあれば、どこででもできるというもの。
 それに、何も小説ばかりと限ったわけではない。
「物書き」
 というのは、エッセイであっても、俳句や短歌のような、短いものであってもいいだろう。
 短い文章と言っても、そこに思いが凝縮されているわけである。とても、勉強になることだと言っても過言ではないだろう、
 それを思うと、
「やろうと思えば何だって、いくらでもできるんだ」
 と思うようになると、
「エッセイでも書いてみたいな」
 と感じるようになった。
「少しつたない内容だけど、少しきれいにまとめれば、つかさとの間の話だって、エッセイとして書けるのではないだろうか?」
 と考えるようになった。
 ただ、
「小説のように、難しくはないのでは?」
 と思っていたが、実際には結構難しい。
 というのも、
「かなり勉強が必要だ」
 ということであった。
 小説のような、
「フィクション」
 であれば、
「いくらでも潰しがきく」
 というものであるが、
「実際には、そんなにうまくいくものではない」
 と言えるだろう、
 少しずつでも勉強しているうちに、次第に興味が深まっていき、市役所などでやっている、
「生涯学習」
 というようなものに、
「エッセイ講座」
 というものがあった。
「これ幸い」
 ということで、申し込んでみることにしたのだ。
 ショッキングなことが、まだ、少しくすぶっていたので、
「こういう機会に友達ができれば、それに越したことはない」
 というものであった。
 しかも、同一の趣味であれば、
「これほどありがたいことはない」
 と言えるのではないだろうか?
 そんな時に、
「好きになれる人がいれば」
 というちょっとした、欲があったのも無理もないことだった。
 実際に、エッセイ教室に入ってみると、男女の比率は。圧倒的に女子の方が多いと言ってもいいだろう。
「そういえば、エッセイストというと、どうしても女性のイメージがあるかな?」
 と思った。
 それだけ
「メルヘンチックな考え方」
 を持っている人が多いということだろう。
 それを思うと、
「確かに、女性が多い」
 というのも分かるというものだった。
 先生も、女性だった。
「エッセイストでありながら、男女問題に関しても、よくラジオなどのゲストで出てくることがある」
 というほどの人で、
「よく、こんな金にもならないことするものだな」
 と思ったが、実際には、
「同市出身」
 ということで納得がいった。
「なるほど、そういうことか」
 と納得した。
 そういえば、
「カメオ出演」
 という言葉がある、
 原作者や脚本家が、ちょい役などで、出演する」
 というものだ。
 まさしく、そんな
「カメオ出演」
 のようなものではないか?
 と感じた。
 なるほど、そう考えれば、講義料も、実際の講演会などの費用から比べれば、格安だと言ってもいいくらいだろう。
 そんなことを考えると、
「この教室は設けもん」
 といってもよかっただろう。
 おかげで、講義に出る日が待ち遠しくなり、機関としては、三か月だったが、
「結構楽しめそうだ」
 と言えるのではないだろうか?
 教室を見渡すと、
「好きに慣れそうな女性も結構いる
 と思えた。
 あくまでも、
「パッと見」
 というだけのことだが、それでもよかった。
「少しでも気分が晴れるのであれば」
 と思うと、
「入会した甲斐があったというものだ」
 と感じた。
 今までとは違った感覚だということが嬉しく、
「早く一週間が経たないか?」
 と思っていたのだ。
 その会場で出会った女の中に、
「宮崎あいり」
 という女性がいた。
 その女とは、最初に体験入会のような時、隣に座った女性だった。
 その時は、別に何とも思わなかった。
 どちらかというと、
「どこにでもいるかのような女性で、好きになろうと思えば思えるかも知れない」
 という程度の女性だったのだが、正直、印象には残らなかった。
 容姿という意味でいけば、
「可愛い」
「キレイ」
 というのには、ほど遠いという感じだったが、逆に、
「絶対に好きになれないほど」
 ということもなく、
「本質的に合わない」
 という感覚でもなかった。
 だから、印象にも残っていなかったのだが、再会してみると、
「あれ? あの時の人だったのか?」
 と思うほどであった。
作品名:洗脳と洗礼 作家名:森本晃次