洗脳と洗礼
「そう。そこまで聞いたのね。ええ、その通りよ。私は前にここにいた人と4年くらいお付き合いをしていて、結婚しようとしていた。私たち、お互いに母子家庭だったから、そのあたりが、気が合ったのかも知れないわね。社内恋愛で皆私たちが付き合っているのを知っていたので、気を遣ってくれているようだったけど、結局、別れてしまったことで、彼との間もギクシャクして、よく言えば会社側が転勤させてくれたというのが、表から見た経緯になるわね」
とつかさは言った。
「表から見たということは、当事者では違ったと?」
と聞くと、
「そりゃあ、そうよね。自分たちの感情は、まわりの人に分かるわけもないし、人は、他人事ともなると、面白おかしく見るものよ。だから、自分のことを助けてくれているなんて思っていると、下手をすると、足元をすくわれるのよ」
というではないか。
なるほど、それだけ、まわりの状況三見えているということであろうか?
そんなことを考えてみると、
「じゃあ、実際には違っていたと?」
と、聴くと、
「まあ、大まかには、その通りだったんだけど。でも、人の感情なんてわからないわよね。その時に、誰が何を考えるかということが多くな問題だったいするからね」
というではないか・
「そうなんですね」
と聞くと、
「ええ、その時に感じたこと、しばらく経って、冷静になって考えることと、その時々でも違うし、冷静にならなければ、気付かない。分からないということだってあるのよね。私は、今回そのことを学んだって気がしたわ」
とつかさは言った。
山岸は、そこまで学んだという気はしなかった。どちらかというと、つかさの話を聴いて、
「本当にそうなんだろうか?」
という半信半疑であったが、相手が経験をしているつかさだということで、納得がいったのだ。
「やはり、経験者にはかなわない」
という思いが強かったのだ。
彼女がこちらのことを考えて話してくれるのかは分からない。
しかし、さすがに、山岸が彼女に惚れているから、余計に彼女のことを知りたいのだということくらいは分かっているだろう。それでいて、どのような返事をするか? ということが問題となるのだ。
「彼はね。本当に優しい人だったんだけど、それが災いしたのね。特に、会社の皆に分かってしまっていたということもあって、かなり、好奇な目で見られた。しかも、揉めた時どっちが悪いか分からないという時には、ほとんどの場合、女性を擁護するでしょう? そうなると、彼は一人宙に浮いてしまう形になるの。そうなるとみじめなもので、それを見ていて、私も頼りないと思ってしまったことで、彼はさらに孤立してしまった。それでも孤軍奮闘してくれたんだけど、結局ダメだったのね」
という。
「彼は、そんなに優しかったんだ……」
と、山岸が呟くと、
「そうね。優しかったわね」
とつかさがいうので、山岸は、
「ドキッ」
としてしまった。
「こんなにも、ドキッとした気持ちになるなんて」
という思いと、
「俺の気持ちを分かってくれていないのかな?」
と、いうつかさに対しての想いとが頭の中を交錯し、複雑な構図を描いているのであった。
「でも、山岸さんは山岸さんだから」
と言って、少ししてから、フォローしてくれたことで、それまでの寂しさは吹っ飛んだ気がした。
「つかささんは、まだ、その人のことを?」
と、核心になることをいきなり聞いてしまい、聴いた後で、
「さすがにまずかったか?」
と思ったが、
「うん、心に引っかかっているけど、もうどうしようもないのよ」
というではないか?
その言葉には、今までにない思いが込められているような気がして、意味深な雰囲気からか、彼女を覗き込むと、彼女も分かっているようで、
「ああ、そうなの。もう二度と、彼のことを思っても、絶対に元に戻らないの」
と言って、微笑んでいる。
その顔は、引きつっていなかった。きっと、自分の中で覚悟ができたということが分かったと言ってもいいだろう。
すると、少しの沈黙の後、つかさは、神妙になって。
「実は、彼。もうこの世の人ではないの」
というではないか?
「えっ」
あまりのことにビックリしてしまった。
すると、つかさは、山岸の顔を見ることなく、正面を見詰めている。
「葬儀に行ったんだけど、私は、その時、涙も出なかったわ。だって、彼が転勤になる前に、散々泣いたんですもの。目が腫れ上がるくらいに泣いたの。だから、もう彼のために流す涙なんて、これっぽっちも残っていなかったのよ。でもね、本当に寂しかったのは間違いないの。だから、もう、彼のための涙はないの。でも正直悔しかった。最後くらい、もっと流せる涙があってもよかったんじゃないかって思ってね」
というのだった。
彼女の心境が、その時どれだけ、複雑なものだったのかということを思い知った気がした。
「こんなに、深い思いが渦巻いていたなんて」
と、山岸は思った。
確かに、以前付き合っている人がいたというだけでも、ショックだったのに、まさか、その人が死んでいて、彼女の心境がここまで、複雑だったとは思ってもみなかった。
しかし、そのおかげというのか、山岸の中で、彼女への思いが再燃した気がした。
くすぶっていた青い炎が、青いまま燃えがっているような気がして、それが自分であり、
「静かに燃える」
という感覚を味わっていたのだ。
「熱くはないが、痛いと感じる」
まさに、そんな心境だったといってもいいだろう。
「つかさにとっての想いが、自分に乗り移ったのではないか?」
と、山岸は考えた。
「手が届くところにいる」
と感じただけ、まだマシだったのかも知れない。
それから二人は付き合うようになったのだが、毎日のように、喧嘩だったり、言い争いがあったりして、まったく落ち着かなかった。
しかし、最後には、いつもつかさが折れてくれる。そうなると、二人の間の情熱は、再燃するのであって、
「これこそが、俺たちの付き合い方なんだろうな」
と山岸は感じるのであった。
「そうね。これが私たちよね」
と言って、お互いが助け合う形だった。
それでも、なかなか、つかさの気持ちの中に入り込むことができない。
「どこかに結界のようなものがあるに違いない」
と思うのだが。その原因というのが、
「元カレの、死因」
だったのだ。
そう、彼は自殺であり、原因は分からなかったが、つかさが何か彼に言いたかったことがあったようで、それを永遠に言えなくなってしまったことで、そのことが彼女に軽い記憶喪失を起こさせ、
「病んでしまった」
と言ってもいいだろう。
その後の二人は、まるで、絵に描いたようなシナリオが待っていた。そう、つかさにとっては、
「完全にデジャブだわ」
と思っていたことだろう。
つかさからすれば、唯一違っていたのは、
「山岸が死ななかった」
ということと、元カレの時のように、
「何か言いたいこと」
というのが、なかったからであろうか。
ただ、ここまで、自分がボロボロになるまで引っ張るとは思わなかった。
「これも、俺が一目惚れしちゃったからなのかな?」
という思いが強かった。