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自己バーナム

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 まだ、結婚して間もない頃などは、
「一緒に暮らせば暮らすほど、その性格がハッキリと見えてくるのは、素晴らしいことだ」
 と感じた。
 普通は一緒に暮らしていると、相手のいいと思っていたところが、実は、
「そうでもない」
 と見えて、がっかりさせられるものだが、彼女の場合は、そんなことはなかったのだ。
 どちらかというと、
「さらに、しっかりしている」
 ということが分かったもので、それを手放しに。
「すべていいことだ」
 として、考えてしまったのは、却ってよくなかった。
 人間の性格というのは、何事も、
「表に見えていることが、その人の性格ということであって、かならず、同じ事象でも、裏というものが存在するのではないだろうか? それが見えていないと、ロクなことはない」
 と、学生時代に、何度となく経験したはずだったのに、肝心の結婚ということになると、自分でも忘れてしまっていたのだろう。
 自分の思い込みというのが、
「相手にプレッシャーをかける」
 ということもあった。
 あれは、中学時代であったが、
「好きでも何でもない子と、同じ班になることが多かった」
 というのは、同じクラスの女の子で、クラスのホームルームでは、実戦形式の時が多く、その時に、
「班構成で課題をこなす」
 というようなことがあったりした。
 その時に、別い意識するところまでは、なかなかいかなかったのだが、最初にどっちが意識したのだろうか? どちらかが意識をすると、相手にもそれは伝わるもので、それまでとは、違った関係に発展して行ったのだった。
 それでも、すぐに、
「好きだ」
 というような感覚になったわけではない。
 どちらかというと、
「どんどん、気になって行く」
 という感覚が強く、時として、
「好きになるという感覚よりも、徐々にでも、相手の気持ちが伝わってくることで、最初かあら、お互いの気持ちが繋がっていた」
 と感じると、
「最初から好き同志だったのではないか?」
 と感じるのであろう。
 お互いに、
「相手のことが好きだ」
 とは言っても、まったく同じ強さということはないだろう。
 必ず、どっちかの方が気持ちは強いもので、そうなった時、時間が経つにつれて、力の強い方が、
「押しつけ」
 のように見えて、逆に少しでも弱いと、
「脅迫観念」
 のように感じられるのではないだろうか?
 もちろん、受け取る方の、感受性の強さにも問題があるのだろうが、一方が全体として強くなると、お互いに好き合っているといっても、このバランスの崩壊により、気持ちが微妙に変わってくるといえるのではないだろうか?
 特に、そのことに気付かぬまま、時間が経過していけば、お互いに分からないうちに、
「何かが違う」
 と感じるようになるのだろう。
 特に、
「バランスが崩れた」
 ということは、結構大きなことなのかも知れない。
 それが、思い込みということであれば、場合によっては、相手にプレッシャーを与え、それがトラウマにでもなったりすれば、なってしまったことで、どのように対応すればいいのか分からずに、下手をすれば、
「相手は、こちらに固執するかも知れないが、こっちは、なるべく関わりたくない」
 というほどの距離ができてしまうと、相手に、
「あの人はストーカーだ」
 と言わんばかりに思わせてしまうかも知れない。
 お互いにそんなつもりはなくても、
「押しつけ」
 というものが、相手にプレッシャーを与え、その挙動不審な状況を、相手はさらに心配になることで、どうしていいか分からなくなり、相手にはそれが、
「パニック」
 を起こさせるようになってしまうと、すでにそこからは、
「収拾のつかないほどの距離を、お互いに取らせることになる」
 といっても過言ではないだろう。
 それを思うと、二人にとって、
「どこですれ違ってしまったのか?」
 ということが分からないと、気付かない間に、距離は遠のいてしまい、永久に、相手の姿を捉えることができなくなってしまうことであろう。
 男と女の話において、
「ストーカー」
 という言葉は、少しキラーワード的な様相を呈している時があり、
「その言葉の持つ意味」
 というものを考えさせられたりする場合があったりする。
 特に、
「犯罪」
 というものに絡んでいるので、問題は大きいのではないだろうか?
 昔にも、なかったわけではないが、言葉として、
「ストーカー」
 というものが定義され、社会問題として、規制する法律ができたことから、
「ストーカーというのは、悪いことだ」
 というのが、定着していった。
 確かに、ストーカーというのは、その言葉が示す通りの行動をとっている人間は、許されるものではない。
 相手に恐怖を感じさせ、その時点で、自由を奪い、束縛しているのである。
 しかも、その裏には、
「命の危険」
 が孕んでいるということもあるではないか。
 もっと悪いことには、確かに、法律もできて、規制もできるようになったにも関わらず、その犯罪は決して減っているとは言えない。
 むしろ、
「どんどんと増えて行っている」
 といっても過言ではないだろう。
 もっといえば、
「法律ができたとしても、その法律によって、すべてを取り締まれるか?」
 というと、そうではない。
 法律ができる前から、ストーキング行為の問題はあった。
 究極において、
「殺人を犯してしまえば、ストーカーだろうが、そうではないだろうが、問題になるのは、殺人罪」
 だからである。
 いくら法律ができたとしても、抑止としての効果や、相手に行動制限を掛けることはできるだろうが、犯罪として問題になるようなことは、警察の行動力があってこそ、伴うというものだ。
 しかし。実際に警察が動くというのは、
「ストーカー被害者」
 というものが、警察に相談に来た時、携帯電話の番号を登録し、
「通話がなくとも、その電話から発信があれば、緊急連絡扱いとして、位置情報を限定し、急行する」
 というような登録をしてもらったりはしている。
 発信があっても、何も言わない場合も考えられなくもない。犯人が、電話を壊したりして、話ができないようにする可能性があるからだ。
 昔の、逆探知などと違って、瞬時に、位置情報の確認はできるだろうから、そのあたりは、昔に比べて、まったくスピード感は違っているだろう。ただ、急行しても間に合わない可能性は十分にある。そういう意味では、
「警察力には、自ずと限界がある」
 ということである。
 しかも、警察というところは、
「何かがなければ、動かない」
 というのが、昔からいわれていることであり、特に、
「被害届」
「捜索願」
 の類は、
「事件性がなければ、まず警察は動かない」
 というのが、当たり前のことになっているのであった。
 要するに、
「殺人事件でも起こらなければ、動かない」
 ということであり、
「殺人事件が起こってからでは遅い」
 ということで訴えているのに、これでは、
「本末転倒ではないか?」
 ということになるのであった。
 警察というのは、どうしても、
「公務員」
 ということもあって、我々一般市民から見ると、
作品名:自己バーナム 作家名:森本晃次