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自己バーナム

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 それも無理もないこととして考えると、パチンコ屋の場合はどうだったというのだろう?
 そのあたりが問題だといってもいい。
 その時、社会問題として、
「自粛警察」
 と呼ばれるものがあった。
 これは、
「国から、要請とはいえ、自粛しなさいという命令が出ているのに、開けている店があったりすると、通報するというものであった」
 彼らは、自分たちの勝手なモラルであったり、常識のようなもので動いていた。
 平安時代に、平時忠という人物が、
「平家にあらずんば人にあらず」
 という言葉を残し、さらに施設警察として、戦災孤児のような少年たちを集めてきて、
「禿(かむろ)」
 という組織を編成し、その子供たちを、街に放って、
「子供だから」
 ということで、安心して、平家の悪口などを言った場合、
「禿の連中が夜にでも襲い掛かってきて、そのまま召し出され、バツを受ける」
 ということが行われたりした。
 その時の刑罰としては、
「財産を没収された」
 あるいは、
「島流しにあった」
「屋敷に火をかけられた」
 などということが横行していたのである。
 そんな時代に、禿なる連中が、街を歩いているわけだから、悪口など言えるわけもない。
 平安京の人たちはさぞかし、
「子供を見るだけで、恐怖に震えたことであろうか?」
 今の時代における。
「自粛警察」
 というのを見た時、その平安時代末期の、
「平家による禿集団」
 というものを思い出さずにいられないというものであった。
 確かに似てはいるが、
「自粛警察」
 は個人であって、集団ではない。
「ただ、それだけ、皆が考えていることは一緒だということで、まるで集団のように見えるのだろう」
 自粛警察として狙われたのは、
「パチンコ屋」
 だったのだ。
 確かに、
「一日の売上が、相当な額でないと割に合わない」
 という、人気店であれば、まったくといっていいほど、補助金などあてにならない。
 だから、店名公表というリスクを負って、店を開けていたのだが、実際には珍現象が巻き起こった。
 というのも、
「○○パチンコ店が、営業している」
 ということを、ホームページに公表した自治体もビックリの、そのとたんに、開店前に、長蛇の列ができたのだ。
 もっとも、
「開いている店があるなら、そりゃあ、いくわな」
 ということである。
 パチンコは、依存症の人がいるし、ただでさえ、自粛を強いられていて、ストレスで皆ウンザリしているところに、
「開いている店がある」
 ということになれば、客が殺到する。
 というのは、当たり前のことである。
 それを考えると、
「公表は失敗だった」
 といっても、すべてが、
「後の祭りだった」
 といっても過言ではない。
 そんな店に客が殺到する。当然、世論の意見は、真っ二つに割れるわけだ。
「パチンコ屋は、どうして、閉店要請に従わない? そんなパチンコ業界は、許せない」
 という、いわゆる、
「自粛警察」
 と、逆に、
「パチンコ業界だけをどうして攻撃するのだ?」
 という
「擁護派」
 であった。
 考えてみれば、パチンコ店というのは、他の業界に比べ、キチンと閉店している率が、九十数パーセントあったのだ。実際に要請に応じない連中に比べれば、結構な確率で、要請に応じていた。
 しかも、肝心なところはそこではなく、
「パチンコ屋に通っていたという人が発症したという例は、聴かない」
 ということであった。
 何といっても、当時のパチンコ屋というのは、
「受動喫煙禁止法」
 が制定されてすぐだったということもあって、
「換気等に関しては、どこよりも充実している」
 ということもあり、
 しかも、
「席を離れて座るように、できる台を制限する」
 ということだってできるのだ。
 そういう意味では、感染の確率は非常に低くなるし、実際に、その話を聴けば、
「安全性は担保されている」
 といってもいいのではないだろうか?
 それを思うと、
「どうしてパチンコ屋だけが、攻撃されないといけないのか?」
 ということで、理不尽な気がしたのだ。
 自粛警察と呼ばれる連中にも、ひょっとすると、どうしてパチンコ屋だけが攻撃されたのか分かっていないのかも知れない。
「世間で、パチンコ屋が空いているのを聞いて、腹が立った」
 という程度のことだったのかも知れないが、もし、そうだというのであれば、これほど情けないものはない。
「お前たちには、反対する理由というのはないのか?」
 と言いたくなるといってもいいだろう。
 それを考えると、
「自粛警察」
 というものの存在を、最初は、
「必要悪」
 のようなもので、あってもいいと思っていた。
 そう、政治の世界でいえば、
「野党」
 のような存在ではないかと思ったからだ。
 というのは、政府与党をけん制し、政府の暴走を防ぐという意味で存在する。
 今の野党は、
「くそ」
 しかいないが、それは、
「ただ、批判をするだけ」
 の政党に成り下がったからである。
 元来野党というのは、与党をけん制したり、暴走を見張るのだから、
「批判をすることが悪いとは言わないが、せめて、批判をしたのだったら、それに対しての代替案を占めることくらいは当たり前のこと」
 といってもいいだおる。
 こんなことは、子供でも知っているだろう。
「批判することは、誰にでもできる。批判した後、どうすればいいかということを言わないのであれば、批判しない方がマシだ」
 と言われたことがなかったのだろうっか?
 だから、
「批判ばかりで代替がないのであれば、しない方がマシ」
 ということで、結局、
「あんな野党に任せるのであれば、まだ、今の方がマシ」
 ということになって、結局は、何もよくならないのだ。
 野党も、もう少し考えていればいいのに、と思う。
 特に、党によっては、医者や弁護士、学者や実業家などと言った、実践でのプロ集団のような人たちで構成されているところだってあるではないか?
 だからこそ、選挙で勝ち残り、国会議員をできているのではないか?
 もう少し党としてのまとまりと、
「小学生にでも分かる理屈」
 を理解するだけで、政権を担えるかも知れないのに、もったいない。
 ただ、前述の、
「年金焼失問題」
 が引き金になって、与党が、
「野に下った」
 という時、野党第一党の勢いのある党が政権を握り、期待されたが、一期だけで、その無能力さが、一気に噴出し、何もできずに、また政権交代ということがあった。
 その記憶があるので、
「損な政党に任せられない」
 というのだろう。
 しかし、これは逆もいえるのであって、
「たった一期やらせただけで、結論づけていいのだろうか?」
 ということもあった。
 ただ。あの時は、地震災害や、原発事故問題などがあり、その時の対応が、あまりにもひどかったというのは、記憶に新しいところだった。
 地元の人の気持ちを逆撫でるような発言をしたりして、世間から、
「総スカンを食らった」
 というのもあったのだが、考えてみてほしい。
「元の与党が、何をして、野に下ったのか?」
 ということをである。
作品名:自己バーナム 作家名:森本晃次