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記憶喪失の悲劇

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「なるほお、急に痛み出したので、薬を飲もうと、カバンから出そうとした時、指でも滑ったのか、カバンが落っこちたんだな?」
 と三十郎は感じた。
 彼はすかさず、カバンを取って、中にある金属製の、保温水筒と、薬の入った、プラスチックのケースを取り出し、彼女に差し出した。
「すみません。それ一回分ずつ、すぐに飲めるように個包装してあるので、一つを取ってください」
 と、カバンから、一つの薬を取り出し、飲みやすいように渡してあげ、水筒も蓋を取って渡したのだった。
「すみません」
 と彼女は言って、貪るように、薬を飲むのだった。
 彼女は、薬を飲むと、前屈みだった身体を起こし、今度は、壁にもたれるように、据わりなおした。
 表情も、心なしかであるが、持ち直しているかのように見えたのだ。
 様子をじっと見ているからだろうか? 思ったよりも時間が経つのに時間が掛かるというわけではなかった。十分もすれば、かなり楽になったのか、二、三階、深呼吸をしたかと思うと、
「すみません。だいぶよくなりました」
 と言って、ニッコリと笑った。
 三十郎はその笑顔を見た時、
「あれ? 見覚えがあるような気がするんだけどな」
 と思ったが、すぐには思い出せなかった。
「そういえば、お兄さん、初めてじゃないような気がするかな?」
 と、彼女もそういったが、すぐに。
「ああ、ごめんなさい。急にこんなこと言って、ごめんなさい」
 というその表情を見て、三十郎は、その子が誰なのか思い出した。
「ああ、そうだ。いちかちゃんではないか?」
 と、三十郎の方は思い出していた。
 だが、そのいちかというのも、
「源氏名」
 であるので、本名を知る由もない。
 源氏名というのは、水商売や、風俗関係の女の子が使う名前で、彼女の場合は、風俗関係であった。
 ただ、
「他人の空似」
 ということもある。別人だったら、失礼だ。
 また、本人だったとしても、こんなところで、
「身バレ」
 をするというのも、本意ではないだろう。
 特に、風俗嬢というのは、
「身バレ」
 というのが、一番怖いことになるのだ。
 とりあえずは、もう少し楽になるまで、一緒にいてあげるしかない」
 と思っていると、彼女は、少し厄介なことを言い出した。
「ごめんなさい。私、どうも記憶がないみたいなの」
 というではないか。
「じゃあ、本当に彼女がいちかちゃんなのかどうかも、分からないだろう」
 と、三十郎は思った。
「えっ、じゃあ、うちとかも分からないのかい?」
 と聞くと、
「ええ、でも、きっと一過性のものなので、すぐに思い出すと思うんだけど、今日、このままどこも行くところがないんだけど、もし、よかったら、一晩だけ、泊めてもらえないかしら?」
 と彼女はいうのだった。
 本当であれば、警察に連れていくべきなのではないだろうか?
 少なくとも、彼女のことを、いや、似ている人をまったく知らなかったら、このまま警察を呼ぶことになるだろう。だが、彼女が、
「いちか」
 であるか、どうかは別にして、
「知っている人に似ている」
 というだけで、このまま放っておくことはできなくなったのだ。
「うん、分かったよ」
 と、三十郎は、そういうしかなかった。
 だが、三十郎も男である。
 よく似た人、いや本人かも知れない人を、まさか家に連れて帰るなどと、後から思えば、
「なんと恐ろしいことをしたんだ」
 と思わないでもなかった。
「今まで、こんな拾い物、したことないぞ」
 と思うと、それが、自分の中で、
「いかに他人事なのだろうか?」
 と思うと、一瞬おかしくなって、笑い出しそうになるのを、必死でこらえていたのだった。
 とりあえず、三十郎は、家に連れて帰ることにしたのだった。

                 女の正体

 三十郎は、今までに、
「彼女が一人もいない」
 というほど、モテナイわけではなかった。
 確かに、
「パッとしない、どこにでもいるような男」
 という雰囲気であるが、
「それだから、モテないんだ」
 ということでもなさそうだ。
 実際に、エンターテイメント性のあるところがあるので、嫌われているわけでもなく、結構、人気もあった。
 だが、さすがに、
「彼氏」
 として、女性が自分を求めてくるということはなかったようで、
「告白された」
 などということもなかった。
 就職してから、二年目の夏のボーナスの後、直属の先輩が、
「お前は、風俗行ったことあるか?」
 といきなり聞いてきた。
 その表情は、仕事の時の真剣な表情から、明らかに、砕けた表情になっていて、そのくせ、目がギラギラしているように見えた。
 いやらしさは確かに感じたが、その視線のギラギラに、何か楽しそうなものがこみあげてきているのを感じるのだった。
 その表情を見ていると、
「先輩の言っているところって、本当にパラダイスなんだな」
 と感じた。
 実際に行ったことはなかったが、どんな雰囲気のところかなどというのは、Vシネマなどで、ちょっと出てきたりしていたので、まったく知らないわけではなかった。
 そういう意味では、まったく興味がなかったというわけでもないのだ。
 先輩は、どうやら、何度もいっているようだった。
 その時、先輩は、風俗について、いろいろ教えてくれた。
 風俗の種類であったり、それによっての料金体系なども教えてくれたのだ。
 その時は、
「山本君の、風俗デビューだ」
 ということで、先輩の奢りだったのだが、先輩は、かなり無理してくれたようだった。
 さすがに、
「最高級店」
 というところまではいかないが、
「高級店」
 ということで、
「サービスも、女性のランクもかなり上だぞ」
 と先輩が言っていたので、
「先輩がいうのだから」
 ということで、信じていたが、後から考えても、その言葉に間違いはなかった。
 風俗にそれから、ちょくちょく行くようになったが、先輩の言っていることに間違いがないことは、その後になっても、分かったことだったのだ。
 先輩が連れていってくれたお店に着いた時には、彼の、
「お相手」
 というのは決まっていた。
 先輩が前もって予約を入れてくれていたので、それに従うだけだった。
 店というのは、
「いかにも風俗街」
 と呼ばれるようなところの一角にあった。
 そこは、
「ある通りからこっちは、完全に別世界」
 というようなところで、
「男のパラダイス」
 というようなところであった。
 先輩がいうには、
「こういうお店というのは、県の条例で、作れる場所が決まっているんだよ」
 というではないか。
 先輩から教えられたこととしては、
「風営法という法律があるんだけど、実際に有効になるのは、その風営法が基準となり、実際に有効となる法律は、各都道府県の自治体が定める、条例というものなんだ。例えば営業時間も、風営法では、午前六時から、深夜午前0時までなんだけど、条例では、風営法の範囲内で、その間に条例で設定されると、それが、法律になるんだよ」
 ということであった。
「なるほど、よく分かりました」
作品名:記憶喪失の悲劇 作家名:森本晃次