記憶喪失の悲劇
そして、その大きさゆえに、
「通行不可」
というところもあり、
「交差点のように、それぞれの優先順位に気を付けて行動しないと、大惨事になる」
ということだ。
そのために信号機があったり、信号機がなくとも、道幅や、車両の種類によって、その優先順位が、決まっているものなのだ。
だから、一人でも、ルールを守らないと、すべてにおいて、大惨事となる可能性を秘めているということだ。
つまりは、
「道路交通法」
というものを、全員が熟知し、守りさえすれば、交通事故は、革命的に減るのではないか?
と思うのがどうなのだろう?
確かに今は、
「免許が必要なものには、講習があるが、歩行者であったり、自転車には、講習の義務はない」
ということだ。
車の運転手からすれば。
「歩行者が、ルールを知らないから、事故が起こった」
というのが、誰が見ても、
「火を見るよりも明らかだ」
と言えることであっても、結果として、
「悪いのは車の方だ」
ということで、車が責任を取らされることになる。
本来であれば、いくら歩行者の立場が絶対だとはいえ、実際に事故が起こってしまったのだから、
「事故を引き起こした」
ということで、その歩行者は、ケガが治ってから、
「自分の無知が、事故を引き起こした」
という自覚を持たせることで、せめて、
「講習を受けさせる」
ということを義務化しなければ、
「永遠に事故など、なくなるはずがない」
と言えるのではないだろうか?
もちろん、講習を受けても、事故は無くならないかも知れない。
あくまでも、
「事故を起こした、本人の自覚」
というものだからである。
もっといえば、
「事故を未然に防ぐ」
ということで、歩行者にも、年に一度の、
「講習」
を起こさせてもいいのかも知れない。
しかし、それは、物理的に難しいだろう。
なぜなら、
「誰が歩行者で、車を持っていないか?」
ということを割り出すのも難しいだろうし、もっと言えば、
「それだけの大量の人に研修をさせるとして、年齢制限であったり、条件などの洗い出しも必要になる」
ということで、物理的に不可能というのは、そういうことである。
ただ、統計的に、
「どういう人が事故を引き起こしやすいか?」
ということを実際に検証すれば、誰に対して研修をしなければいけないかというターゲットを絞ることくらいできるだろう。
当然、交通事故と言っても、人身事故であれば、調書くらいは残しているだろうから、
「歩行者ということで検索すれば、その人の年齢、職業、それらの情報は分かるだろうから、たとえば、いくつの人が多いのか? 職業は?」
ということになるだろう。
「子供や老人が多い」
ということであれば、
「もっと、学校での交通安全教室を開いたり、高齢者には、公民館などで行うようにすればいいのではないか?」
ということになるだろう。
しかし、警察署とすれば、
「今だって、それくらいのことは、できるだけやっているんだ」
ということだろう。
なるほど、確かに、学校などで、交通安全教室を、警察が行っているというのは、よく聞く。
ただ。しいていえば、年に数回の。
「交通安全期間」
という時に集中してやっているだろうから、その時だけということになったとしても、無理もないことなのかも知れない。
「では、それ以外の期間は何をしているのか?」
といえば、
「交通違反の取り締まりなどを行っている」
というだろうが、それも、一般市民からすれば、
「あんなもの、警察の資金調達のための予算として、勝手に決めたノルマのようなものじゃないか?」
というだろう。
確かに言われてみれば、その通りであり、警察も、
「何を言っても、言い訳にしかならない」
ということであろう。
それでも、警察というものが、どういうものなのかということを考えると、
「しょせんは、公務員。何かなければ、市民のために動いてくれないところだ」
ということであろう。
いや、それは言い過ぎだった。
「何かあれば、動くのは、警察のメンツのためだけであって、決して、市民のため、あるいは、正義のためなどという言葉で動いたりはしない」
と言ってもいいだろう。
言い訳はするくせに、きれいごとすらできない組織が警察で、何かといえば、
「縄張り争い」
さらに、
「手柄の争い」
であり、
「自分たちのメンツというか、自分のことしか考えていないというのが、警察という組織だろう」
と言えるに違いない。
ただ、それは、何も警察だけに言えることではなく、同じく官僚のような、同じような組織であったり、もっといえば、
「国を実際に動かしている」
という政府自体が、もっとひどい考え方を持っているのだ。
「国民を盾にして、自分の保身を図る」
というのが、政府であり、何かの事件や事故が起これば、国民皆が、そのことを思い知らされるのだ。
しかし。それでも、1年もすれば、そんなことをすっかり忘れているというのも、国民というものであり、
選挙になると、忘れてしまったかのように、結局は、政府に票を入れるのだ。
票を入れないとしても、
「選挙に行かない」
ということで、投票放棄を行うのだから、政府に票を入れたのと同じことだ。
というのも、
「政府は、組織票が一定数あるから、投票率が落ちれば落ちるほど、自分たちに有利なのだ」
ということである。
なぜなら、組織票を保持している人は、絶対に、選挙にいくからだ。そこに、金が絡んでいるかどうか、分からないが、
「必ず選挙に行く」
ということは、そういうことになるのだろう。
政府や警察などが、ほぼあてにならないという世の中になってくれば、世の中自体がおかしくなっても無理もない。
「元々、放っておいたこと」
あるいは、
「分からないのをいいことに、放置していた」
いや、
「実際には分かっていたくせに、分かっていないふりをして、後に託した連中に、責任を押し付けて、引退していった連中」
そんなものは、山ほど、思い当たるものがあるのではないか。
「バブルの崩壊」
だって、実際に崩壊すれば、誰もが冷静になって、
「こんなこと、当たり前のことじゃないか?」
とばかりに、
「今からであれば、何とでもいえる」
とばかりに、
それこそ皆して、
「どうして、誰も分からなかったんだ?」
と思うことだろう。
「分かっているくせに、誰も何も言わなかっただけじゃないか?」
と誰だって思うことだろう。
確かに、
「分からなかった」
といえば、
「政治家や、経済学者のくせに、バカなんじゃないか?」
と言われるのだろうが、それよりも、
「分かっていて、何も言わない」
という方が、何倍も悪質だ。
完全に、
「確信犯」
ということになれば、それは、とんでもないことだ。
「いうだけでもいっていれば、誰かが、対策を考えてくれるかも知れない」
しかし、政治家や学者はプライドが高い。
つまりは、
「言い出したはいいが、何もできないということになれば、俺の政治家としての地位は、ボロボロだ」
ということになるだろう。