小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

記憶喪失の悲劇

INDEX|17ページ/19ページ|

次のページ前のページ
 

 常識にとらわれるのであれば、それだけのことができていればいいのだが、それができていないことでが、やつらの命取りだったのだ。
 そう考えれば。
「皆殺しは、比叡山の僧の側に責任がある」
 といっても過言ではないだろう。
 比叡山の僧は、油断もしただろうが、やはり、
「自分たちが間違っているかも知れない」
 ということを、まったく考えていないことでの、検挙さを失っていたのだろう。
「寺を焼き討ちにすれば、天罰が下る」
 ということで、いくら信長でも、天罰が下るようなことはしないと思ったのだろうが、感覚の違いというのは、恐ろしいものだ。
 僧侶たちも武装したりはしていたが、武士ではないのだ。武装して戦うということの意義や目的が、最初から違っているのだから、考え方が違うのは当たり前。
 いくら比叡山の連中が、
「御仏がおわす」
 といっても、武士からすれば、
「僧侶がいうように、民を救うというのであれば、今の戦乱の世をどうにかしてから言え」
 ということなのであろう。
「民を救うこともできず、坊主どもは、肉を食らい、酒を飲み、女を抱く。それこそ、酒池肉林ではないか?」
 と言われてしまうと、僧侶も何も言えなくなるはずだ。
 そもそも、平安時代に荘園を寺社がもつようになって、
「それら荘園を守る」
 ということで、僧兵というものができたのだから、
「僧兵と武士とは、元々の成り立ちという意味では同じではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
 それを思うと、
「僧兵と、武士とが争うのは、おかしなことでもある」
 と言えるだろう。
 しかし、戦国時代は、武士によって作られた戦乱の時代。
 農民や僧侶にとっては、ある意味、
「迷惑」
 ともいえるだろう。
 しかし、自分の土地や生活を守るためには、地元の武士が、他の土地からの侵略から守ってくれないと困るというのも、道理である。
 武士の世の中として、
「封建制度」
 というのは、庶民たちと武士との間、あるいは、武士の間での取り決めであるので、僧侶にはあまり関係のないところであろう。
 そんな時代から、お城というと、山城から、平山城になったり、平城になったりしてきた。
 これは、城下町に聳える領主の権威の象徴という意味で、城をどこからでも見えて、さらに、街全体を、要塞化するという目的もあったのだろう。
 そんな城も、江戸時代になって、徳川幕府成立後、豊臣政権が滅んだあとは、
「そんなものがあると、今度は幕府への謀反につながる」
 ということで、幕府とすれば、
「超大敵がなくなったということで、今度は、各大名の力を削ぐ」
 ということを目的に、
「改易」
 によって、取り潰し、
「参勤交代の義務」
 によって、藩の財政を圧迫させる。
 ということによって、力を削ぐことに特化した政策をとるようになった。
 その後、今度は、改易によって、職を失った武士が、溢れるという、
「失業問題」
 を引き起こしたり、
「幕府の財政が、揺らいでくる」
 というさまざまな問題が起こっては来たが、それでも何とか、
「ペリー来航」
 までは、幕府の権威というものが保たれていたようだ。
 だが、開国から、明治維新にかけて、
「尊王倒幕運動」
 から、新政府確立と、時代は移り、
「近代兵器の前では、城はもういらない」
 ということで、
「廃城令」
 が出された。
 これは、軍による徴用として使えない限り、基本的に取り壊すというものであったが、中には、民間に払い下げなどということをして、残された城もあったりした。
 それでも、戦争中の空襲では、そのほとんどが焼失し、戦争が終わってから、復興のための天守であったり、観光目的での天守建造という、
「模擬天守」
 というのもできてきたのだった。
 今の観光で見ている天守のほとんどは、この、模擬天守ということになる。
「本当に天守がその場にあったかどうか、関係ない」
 ということであったり、
「実際に天守があったのかどうかも分からない」
 というものもあったりするのだ。
 つかさは、そんな城めぐりをしている時、それくらいの知識はちゃんと持っていただろう。
 実際に、記憶が欠落している中で、
「城めぐりが好きだったような気がする」
 という記憶の中で、
「城についての知識もある程度は持っていたはず」
 と感じていた。
 そして、その城というものの考え方を思い出していくうちに、
「私は、何か重要な仕事のようなものを持っていたような気がするんだけどな」
 という思いと、
 なぜか感覚的に、
「その重要なことが、複数あったような気がするんだよな」
 と感じたのだが、それが何なのか、正直分からなかった。
 その複数のことが、
「関係のあることなのか?」
 あるいは、
「関係のないことなのか?」
 ということで、自分が、記憶を失っていることの意義のようなものがあるのではないか?
 と、勝手に感じるのであった。
 さて、そんな中で、つかさは、自分の中にある
「欠落した記憶」
 というものを思い出そうとしていた。
 しかし、実際には、その欠落している記憶が残っているはずだった。
 その記憶がどこにあるのかというと、分からない。
 だが、その記憶をもし引っ張り出したとすると、記憶を失ってから今までにできた記憶がどうなるのか?
 ということが怖かったのだ。
 しかも、つかさは、
「自分の記憶の欠落が、いつから始まったものなのか?」
 ということが分からない。
 分からないからこそ、
「戻ってくる記憶よりも、失う記憶が、どこからなのか?」
 ということの方が怖いことを恐れているといってもいいだろう、
 もっといえば、
「そもそも、記憶が欠落していることを、途中まで分からなかったのだから、どこから記憶がないのか? などということが分かるはずがない」
 といってもいいだろう。
 実際に、記憶が欠落している部分というのは、道の途中で陥没しているようになったところで、完全に、通れないところではない。
 しかし、無理をすると、せっかくの足場も崩してしまい、自分が谷底に落下するだけではなく、完全に、元にいる人も渡れなくなってしまう。
 だから、誰も渡ろうとせず、その場での救助を待っている。
 つかさもその感覚があるから、無理に記憶を取り戻そうとしないのだ。
 それなのに、まわりは、皆、
「記憶が戻ればいいよね」
 と、実にいい加減なことをいう。
 自分がその立場になれば、本当にそう思うのだろうか?
 そんなことを考えていると、
「記憶が戻れば、それまでの記憶が消える」
 という子供の頃に見たアニメを思い出した。
 その時、魔法使いの話で、魔法使いの女の子が、
「自分が魔法使いだということを明かさなければ、友達を助ける魔法が使えない」
 という。
「そこで、彼女は使おうとするが、それをするには、魔法の国の掟で、人間に魔法使いであるということがバレると、人間のその記憶から、魔法使いや自分たちの存在の記憶がすべて消されて、自分たちは人間界にはいられない」
 というものであった。
 これは、魔法使いの女の子にとっては、厳しい選択であった。
作品名:記憶喪失の悲劇 作家名:森本晃次