小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

記憶喪失の悲劇

INDEX|16ページ/19ページ|

次のページ前のページ
 

「室町幕府、将軍後継問題、御家人のお家騒動、そして、管領による、権力闘争などが渦巻く中で巻き起こった、応仁の乱の時、各地の守護が、京都に集結し、いくらに興じていた時、地元では、主語がいないということで、守護代は、御家人などが、反乱を起こし、領地を奪い取るということを行い、守護は完全に、どうすることもできず、急いで、領地に戻らなければいけなくなった。
 そのまま、反乱を収める場合もあれば、結局反乱がそのまま居座ることになるが、どちらにしても、この時代からの大名は、
「戦国大名」
 として、
「内に外に」
 と、敵をまわりに抱えることになってしまうのだ。
「戦に明け暮れ、領地を拡大していく」
 そうしないと、隣国から攻めこまれ、相手にみすみす領地を取られてしまう。
 そのための、
「戦いの城」
 というものが必要になる。
 当時の城というのは、基本的には、山城が多かった。
 平地には、居住地としての、館が作られ、その後方にある山に。
「詰めの城」
 という形で、隣国から攻められたりすると、領主はそっちに籠って、攻めてを迎え撃つということになる。
 いわゆる、
「籠城戦」
 っである。
 当時の城は、山の上にあるので、基本的には、
「天然の要塞」
 ということである。
 天然の城」
 というと、山なので、濠といっても、空堀であり、その堀切によって、相手の侵入を阻んだり、
「上から」
 という地の利を生かし、石を落としたりして、攻撃を粉砕するというやり方を用いたりもするのだった。
 戦争において、どのように相手から攻められないか?
 ということを考えていると、次第に、城の形も変わってくる。
 特にまわりにも山があれば、そこに、支城を築くというのも当たり前にあったことだ。
 これには2つの理由があり。
「本城が攻められた時、逃げられる」
 ということと、
「本状を攻めている敵を後ろから忍び寄って、挟み撃ちにできる」
 ということである。
 ただし、失敗すると、本陣から、別動隊が現れ、支城からの軍は、別動隊によって、やられてしまうということにも、なりかねないであろう。
 そんなことを考えていると、
「戦争をいかに、うまく進めていくか?」
 ということのキーパーソンは、
「城」
 だということは、この時代から分かっていたことだろう。
 そういう意味では、城の目的は、
「攻めてくる相手を寄せ付けない」
 ということに終始することだろう。
 その後に起こってくる、大名による、
「政務を行う場所」
 あるいは、
「大名の住居としての側面」
 と言われるが、そうではない。
 逆に皮肉な言い方をすれば、
「切腹の場所」
 といってもいいだろう。
「相手の兵に攻められ、相手に天守まで来られると、もはやこれまでといい、腹を切り、そのまま天守に火を掛ける」
 というのが、天守の役割であり、運命だともいえるだろう。
「実に儚い、役割であり、運命だ」
 ということになるのであろう。
 そんな天守の出現は。戦国時代の後半くらいであろうか?
 天守の最初と言われるのは、
「松永久秀の信貴山城」
 と言われたり、最近では、
「荒木村重の有岡城」
 いわゆる今の、
「伊丹城」
 だと言われている。
 いずれも、今では残っていない。
 特に、信貴山城というと、織田信長に攻められ、信長が、
「差し出せば命は助ける」
 と言った、茶器があるのだが、言い伝えとして、
「その茶釜に爆薬を仕込んで、爆死した」
 と言われているが、真相というのは、かなりあやふやだという話だった。
 有岡城というと、黒田官兵衛を幽閉したということで有名なところで、ちなみにいえば、信貴山城の松永久秀、有岡城の荒木村重、それぞれに共通点があったというのは、皮肉なことではないか。
 というのは、
「二人とも、織田信長を裏切った」
 ということであった。
 松永久秀に至っては、2回も裏切っているのだ。
 だからなのか、信長に、
「降伏勧告」
 を受けた時、最後まで断り、自害して果てたのだ。
 織田信長というと、
「殺してしまえホトトギス」
 という狂句が残っていることから、
「残虐非道な人間」
 と評されているが、実は、それ以外の三英傑である、
「豊臣秀吉」
「徳川家康」
 の方が、残虐だったといっても過言ではないかも知れない。
 秀吉は、自分の悪口を書いたとされる連中を探し出すように命じておいて、それができなかったからといって、捜索した連中を、家族もろとも処刑したのだ。
 もちろん、
「家族もろとも」
 というのは、残虐だと言えばそうなのだが、当時とすれば、仕方のないことである。
 なぜなら、
「平清盛と、源頼朝」
 という二人の関係を考えると、当然、皆殺しは仕方のないことだろう。
 というのも、
「平治の乱で勝利した清盛が、子供の頼朝を、二位の前、つまり、義理の母親の嘆願にて、命を助けたこと、さらに、弟の義経、範頼までをも助けたことで、この三人が、結果として、平家滅亡を導いたのだから、清盛としては、一緒の不覚だったといえるだろう」
 ということであった。
 そういう意味で、
「勝者が処刑を行う場合、家族もろともというのは当たり前のこと」
 だったのだ。
 だから、家康が、
「大阪の陣」
 で、豊臣家を滅亡させた時も、隠れていた秀頼の息子をも見つけ出して、処刑したというのも同じ考えだったことだろう。
 このように、秀吉も家康も、残虐性では、引けを取らないといってもいいだろう。
 しかし、信長というのは、この二人にも増して、残虐だったといえるのだろうか?
 よく言われる、残虐性であるが、その代表例が、
「比叡山焼き討ち」
 ではないだろうか?
 確かに、女子供まで、すべてを虐殺したというのは、ひどいことであることは分かる。
 しかし、信長はわけもなく、いきなり攻撃したわけではない。
 当時の寺は荘園の利益などもあり、裕福になっていて、僧侶としては堕落していた。
 しかも、政治に口は出すは、敵対勢力に加担するわということで、
「仏門」
 という隠れ蓑に隠れてのやりたい放題だったのだ。
 だから、信長は、
「今後、敵対勢力に加担すれば、比叡山を焼き討ちし、皆殺しにする」
 と警告までしていたのだ。
 それでも、比叡山は、
「そんな罰当たりなことはできないだろう」
 とタカをくくっていたのだ。
 世情を見ていれば、本願寺に苦しめられている信長を見れば、宗教団体を、大名と同じだと考えていることは分かりそうなもの。
「堕落は、世間を見る目まで曇らせていた」
 ということであろうか、可愛そうなのは、門徒の人たちである。
 ただ、これも、
「本願寺などへの見せしめ」
 と考えれば、このやり方は、
「人間としてどうなの?」
 と言われるかも知れないが、
「この時代ということであれば、おこが、残虐だというのか?」
 と言えるだろう。
 何と言っても、いきなりではなく、ちゃんと忠告もしているのだ。
 そして、どうせ、やつらは、
「信長といっても何もできないではないか?」
 といって笑っているだろうことは、誰にでも想像のついたことであろう。
作品名:記憶喪失の悲劇 作家名:森本晃次