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邪悪の正体

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「こういう病気において大切なことである」
 というのを教えられたということも、重要だった。
 かすみの場合は、
「鬱状態から、躁状態になる時」
 というのが、自分で分かっている時だということだった。
 それまで、真っ暗なトンネルの中を走りながら、先の方から、白く光るおのが、まるで、後光が差してくるかのような眩しさに、それまでの薄暗さが多い被され、それまで感じていた、
「黄色い薄暗さが、さらに、明るい後光を際立たせている」
 というようだった。
 トンネルという鬱状態の中を走っていると、黄色い明かりが、一定間隔についていて、自分が、その車を運転しているのに、トンネル内で、
「下っているのか、上っているのか、それとも、水平に走っているのか?」
 自分でもよく分からない。
 自分で運転しているのだろうから、分かりそうなものだが、分かるという気配がないのだ。
 制限速度、ギリギリで走っていると、自分が、どの位置にいるのかということが分かるのだ。
 だから、制限速度ギリギリのところを走っているのが、一番いいはずなのに、まわりに車を意識してしまうと、
「必ず自分よりも、先に進もうとしているはずなので、遅い自分のスピードにイライラしてしまう」
 と、いう気持ちと、
「まわりが、こちらの遅さに反応して、イライラしているのが伝わることで、
「いかに気を遣わなければいけないか?」
 ということを考えてしまい、
「イライラから抜けられない」
 という、
「負のスパイラル」
 を感じるということになるのだった。
 どっちにしても、襲ってくるスパイラルであるから、自分が、
「いかに、努力をしても、イライラを払しょくすることはできない」
 と思うのだ。
 努力をすればするほど、泥沼にはまり込む気持ちにさせられる。それは、当たり前のことであり、
「そんな状況を鬱状態」
 というからであった。
 努力が実を結ぶというのは、少なくとも、
「鬱状態以外の時のことだ」
 といってしまうと、鬱状態では、
「実も蓋もない」
 と言われるであろう。
 鬱状態になった時、唯一の救いは、
「約2週間という期間を、何とかやり過ごすことができれば、躁状態がやってくる」
 というものであった。
 ただ、躁状態に入ったからといって、手放しで喜べるものではない。
「鬱状態からの躁状態」
 という場合は、そう簡単に片づけられることではない。
 鬱状態が若干は治っているのだが、尾を引いたまま躁状態になると、危険であるということも、よく言われていることだったのだ。
 鬱状態では、実際に、
「ロクなことを考えない」
 ということであったり、
「一つ悪いことを考えると、そこから、すべてが負のスパイラルとなって、どんどん最悪の方に考えてしまう」
 ということであったり、
「不安というものが、凝縮され、まわりが全員敵に思えてくる」
 などというような現象が代表的であろうか?
 特に、まわりと話をしていて、全否定されるかのように感じ、全否定されることで、不安が煽られ、
「この世で起こっているすべてが、自分の責任だ」
 という、まったく考えなくてもいいことを考えさせられたりする。
 それがひどくなると、幻影を見たりすることに繋がっていくのではないだろうか?
 ただ、そこまでくれば、
「鬱病からの派生」
 ということではなく、
「鬱病が、他の精神疾患を誘発している」
 という、まるで、
「合併症」
 のような様相を呈してしまい、下手をすれば、
「今起こっている病気による現象は、明らかに病気だとは分かるのだが、それがどの病気か分からない」
 というほど、複数の病気を患ってしまっているかのように、見えてくるのかも知れない。
 そうなると、死と隣り合わせというような伝染病が流行った時など、そのワクチンの遊園順位として、最優先される、
「基礎疾患の持ち主」
 というようなものとなるであろう。
 実際に、伝染病による致死率の高さは、
「基礎疾患のある人」
 と、
「老人」
 ということになるのだろう。
 さらに、老人よりも危なくて、さらに、基礎疾患がある人たちと、ほぼ同等といってよく、
「一番危険性があり、いなくなられると一番困る」
 という存在である、
「医療従事者」
 というものは、もちろん、最優先されるべきだ。ただ、老人や輝度疾患のある人のような、
「直接的な危険」
 があるわけではないので、そのランク分けをする場合は、
「医療従事者」
 というものだけは、別格だといってもいいだろう。
 実際に、数年前に起こり、今では、若干ではあるが、勢力が落ちてきている、
「世界的なパンデミック」
 であるが、まだ、患者は一定数いるのに、
「金を使いたくない」
 という国家は、国民の命などどうでもいいと言わんばかりに、感染が少し収まってきたのをいいことに、
「マスクをしなくてもいい」
 というお触れを出してみたり、
「国家の責任で、治療費やワクチンの国民負担をタダにしてきたが、これからは、普通の伝染病として、季節性インフルエンザ並みの対応にする」
 という、
「ランクの引き下げ」
 というものをやったが、大丈夫なのだろうか?
 実際に、
「マスクの要不要は、本人の自主性に任される」
 ということであるが、国民のほとんどは、まだマスクをしている。
 そういう意味で、一般市民と、政府の温度差は、かなりのものがあるということで、そういう意味でも今の政府を信用できないと思っている国民がたくさんいるのだった、
「躁鬱症は、躁と鬱とが定期的に交互にやってくる」
 ということで、必ず、
「躁から鬱」
 そして、
「鬱から躁」
 という状態ができてしまうというのが、常である、
 そして、かすみの場合は、
「鬱から、躁に変わる時、自分のことが分かる気がする」
 と思っている。
 ということは、
「今、躁状態に変わったんだ」
 ということが理解できる。
 先生がいうには、
「その時が危険だ」
 ということであった。
 その理由というのが、
「躁状態というのは、ハイは状態であり、鬱状態とは反対に、身体がそれまでの、まったく動かない状態から、自由に動かせることができるようになり、下手をすると、何でもできるという分に考えることができる」
 というところが、
「大前提だ」
 というのである。
 何事も、正反対の状態に向かう時というのは、必ず大なり小なりのリスクというものが伴うということになるのだ。
 それが、特にこの、
「鬱状態から躁状態に向かう」
 という時であった。
 というのも、
「鬱状態が解放されてくるのだが、何しろ、ついさっきまで、肉体の疲れを伴うほどの、徹底的な自己否定の間に佇んでいただけに、自分がいきなり躁状態になったとしても、意識の中では、十分に、鬱状態は蠢いているわけである」
 と言えるだろう。
 そんな精神状態でありながら、肉体、精神的な状態としては、
「今なら何でもできる」
 という情愛になっている。
 つまり、意識と、身体精神的なことが支配する自分の状態とに、ギャップがあるということである。
作品名:邪悪の正体 作家名:森本晃次