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邪悪の正体

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 だから、意識が、精神、肉体的なことが支配する状態に近づいて、関わってしまうと、「意識が、状態を凌駕する」
 ということになるのだ。
 そうなってしまうと、例えば、
「死にたい」
 という鬱状態の意識の中で、
「何でもできる」
 という躁状態における、精神、肉体的なことが支配する除隊を凌駕してしまうと、
「死にたいという感情が、何でもできる」
 という状態と相まって、衝動的な行動に走ってしまいかねず、そのまま、
「死を選ぶ行動」
 をしてしまわないとも限らない。
 もっとも、これには、タイミングが重要で、よほどいいタイミングで重ならないと、本当に自殺に走るということはないだろう。
 だが、それでも、危険な状態であることに変わりはない。
「危険な状態ほど、危うい状態に近づきかねない」
 ということが言えるのではないだろうか?
 それが最終的に厄介なことになりかけないという、意識と状態であるということには、変わりはないのだ。
 この状態が、もっとも危険な状態だということを、果たして、どれだけの人が分かっているというのか、難しいところであった。
 そんな、
「鬱から、躁状態への切り替わりの時」
 というものの危険性を把握したうえで、さらに、
「鬱から躁への時期」
 というものが分かっているのであれば、
「鬼に金棒」
 といってもいいのだろうが、しょせんは、
「そこまででしかない」
 ということも言えるのだ。
 どれだけ気を付けて、意識したとしても、
「人間の力には限界がある」
 ともいえることだろう。
 そのことを考えると、
「それだけの、備えがあって、準備を怠らなかったとしても、死ぬ時は死ぬ」
 ということである。
 実際に、自殺未遂を、間一髪のところで止めて、何とか未遂で終わらせたとしても、油断していると、収容された病院から、こっそりと抜け出し、今度は高いビルの上からの飛び降りという、
「確実な方法」
 によって、
「本懐を遂げた」
 という人もいたりする。
「そういえば、昔のアイドルで、最初は助けられたけど、その日のうちに飛び降りたということもあったっけな」
 ということを覚えている人も一定数いるだろう。
 何しろ、そのアイドルの知名度からなどから、自殺したというだけでも、大きなニュースなのに、
「自殺を止めることが完全にはできなかった」
 ということが大きなショックとなり、かなりの社会問題を引き起こした。
 しかも、彼女の知名度から、
「後追い自殺が絶えなかった」
 ということで、当時の国会でも、問題になったほどの事件だったのだ。
 だから、自殺を止めることができたからといって、簡単に自殺を諦める人ばかりではないということである。
 人によっては、
「死ぬ勇気など、そう何度も持てるものではない」
 といっている人もいるが、まさにその通りなのだが、前述のように、
「鬱から躁に変わるタイミング」
 のように、一度、食い止めることができたからといって、
「もうこれ以上自殺をしないだろう」
 と思うことの方が、
「稀なのではないか?」
 と感じるようになるのではないだろうか?
 それだけ、死にたいと思う人の思いは、
「結構、強固なものではないか?」
 と感じるのであった。
 だから、自殺者というのは、減らないのだ。
 自殺するには、いろいろな理由や状況があるだろう。そのほとんどの発想は、
「生きているよりも、死んだ方がマシだ」
 と考えるから自殺に走るのだろう。
「生きていさえすれば、そのうちに、きっといいことがある」
 などという、判で押した、三文芝居の脚本にあるようなセリフ、
「そんなことがないのは分かっているから、死のうとしてるんじゃないか。俺たちだって、生きていていいのなら、死にたくなんかないさ」
 と思っていることだろう。
 ただ、この鬱から躁に変わる時の、
「死にたい」
 という気持ちには、きっと何か見えない力が働かないと、いくらその状況になったとしても、最後の最後となる行動をとるには、かなりの度胸がいるはずだ。
「背中を押す」
 というような存在があるのではないだろうか?

                 石ころの存在

 そんな鬱状態の時、
「最近、自分のことがよく分からなくなることがある」
 と、よく感じるようになった。
 その間、自分が、
「記憶を失っていたのでは?」
 と感じることが、たまにあるということを感じていた。
 そんな時に、自分が、
「ひょっとして、誰かと出会っているのでは?」
 と感じることがあったが、覚えていないのだから、しょうがない。
 ひょっとすると、
「こんにちは」
 というように、相手に挨拶されて、
「キョトンとしてしまうような失礼なことになりはしないか?」
 と感じてしまっていた。
「そういえば、たまに、こっちを凝視していて、こっちがそれに、初めて気づいたかのような態度を取ると、急に慌てて目を逸らす」
 というようなことがあった。
 もし相手が、そのことを分かっていて、こちらに視線を投げているのだとすれば、
「実に申し訳ないことをしている」
 ということにあるのだ。
 それを考えると、
「記憶を失うというのは、それだけ、人に対して、失礼なことをしている」
 ということなのかも知れない。
 ただ、記憶を失うということを、わざとしているわけではないし、そもそも、そんなことをわざとして、自分に何のメリットがあるというのか?
 本当に何か記憶を喪失しないといけないという理由があるのであれば、それも仕方のないことだが、そうでないとするならば、どう考えればいいというのだろう?
 精神疾患が、子供の頃から続いているという友達がいるが、その友達がいうには、
「しょうがないものはしょうがない。ないものねだりをしても、自分が苦しいだけなので、ないものはないとして、どう自覚するか? ということが大切で、その自覚に、どれだけの覚悟がいるかということが必要なのかってことが、最近になってから、やっとわかってきたような気がするのよ」
 というのであった。
 その人の病気がどういうものであるのかということは、詳しくは分からなかったが、ただ、今すぐ何か治療のために、積極的な医療行為をしないといけないというわけではないようだ。
 本人がいう通り、
「覚悟を持った自覚」
 というものを持つことが、一つの通過点であるかのような症状に、
「長く付き合っていかなければいけないもの」
 ということで、逆に、
「積極的な治療法が、今のところないということで、このままずっと、前を向いていかなければいけない」
 ということになる。
「そんなことは当たり前じゃないか?」
 と言われるだろうが、
「当たり前のことを当たり前にできる世の中だとは、決して言えない」
 ということは、医者も言っていた。
 だから余計に、
「必要以上のことを考えるのが、時間の無駄だということを、自覚できるくらいに割り切れるようになるのも、大切なことだ」
 と医者もいうのであった。
 確かに、
「すべての時間が、必ずしも大切だとは言えない」
 ということは、自覚しないとピンとこないだろう。
 逆に自覚したことで、
作品名:邪悪の正体 作家名:森本晃次