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邪悪の正体

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 と呼ばれるものは、そういう猟奇犯罪えあったり、その一つとして、耽美主義のものが結構あったりする。
 その一つとして、
「性的なプレイ」
 として、
「SMの関係」
 というのもあったりした。
 例えば、緊縛というのも、
「美を追求する」
 ということで、今でも、SMクラブのようなところで、演じられていたりするではないか?
 SMというと、ムチやロウソク、手かせ足かせなどの道具を使うもの、もっといえば、浣腸などの尾籠なプレイもあり、一言で、語りつくせないものがある。
 そういう意味で、
「SMプレイを、耽美主義として、一括りにできるだろうか?」
 というのは、たぶん、性的な研究者であったり、小説家や、芸術家の間で、論議されるところであろう。
 それだけに、いっぱいあるもののどこまでが、
「美」
 なのかということを追求すること、それこそが、
「美の追求」
 なのではないか?
 と考えるのだ。
 探偵小説というと、ちょうど、大正時代の後期くらいから、昭和の戦後の混乱時期などによく書かれたものが多いだろう。
 さすがに。戦時中などは、出版管制のようなものがあって、
「探偵小説」
 のような俗世の小説は、廃刊と呼ばれていた、暗黒の時代があったので、なかなか、戦後の混乱でも、難しいジャンルではあっただろう。
 しかし、逆にそれだけ、おどろおどろしさとしては最高で、
「舞台は整った」
 といってもいいだろう。
 実際に、かすみは、その時代の探偵小説が好きだった。
 元々は、今でも、時々、放送される、
「有名な昭和の探偵」
 が活躍するサスペンスドラマを見て、その原作を読んでみると、
「嵌ってしまったのだ」
 もしこれが逆で、
「原作を読んでから、テレビを見たのであれば、かなりがっかりするだろう」
 と思えた。
 放送するために、シナリオを書くとなると、時代がかけ離れているために、
「あの時代をそのまま、放送してもいいのだろうか?」
 というものもある。
 何しろ、今のような、コンプライアンスの厳しい時代。今のコンプライアンスなど、
「何でもありだった」
 という時代である。
 もっとも、そんな時代がなければ、
「コンプライアンス違反」
 などと言って、そんなに騒がれることもないはずだ。
 何といっても、
「セクハラ」
「パワハラ」
「モラハラ」
 これらのものは、何でもありだった時代だ。
 しかも、学校では先生が生徒に対して、
「体罰」
 であったり、
「連帯責任」
 などという、一歩間違えれば、
「大日本帝国時代の旧日本軍」
 を思わせるのである。
 しかも、そんな風潮が、昭和の終わり頃まで続いたのだ。昭和というと、63年まであった(64年は、7日間だけ)わけで、戦争が終結したのが、昭和20.年、つまりは、40年近くあったということだ。
 昭和が終ってから、平成、令和と繋がるが、そお二つを合わせても、まだ、戦後から昭和の終わりまでには届いていない。
 それだけでも、昭和という時代は、復興であったり、好景気などといういい時代がありながら、少しずつ、アメリカの押しつけ民主主義が確立していったのかも知れない。
 ただし、世界情勢が、
「社会主義体制と民主主義体制の対立」
 と言われた、
「東西冷戦の時代」
 ということは忘れてはいけないということであった。
 しかも、東西冷戦の象徴だった、
「ソ連」
 さらに、
「ベルリンの壁」
 の二つが崩壊することで、東西冷戦は、なくなったのだった。
 その時代がちょうど、タイミングよく、昭和の終わりと、合致したということも、ただの偶然ということで片付けていいものだろうか?
 そんなことを考えていると。
 そんな昭和の時代を超えると、今度は平成となる。その時代になると、
「政府間の戦争」
 というよりも、
「超大国に対して、それぞれの国の、独立組織」
 と呼ばれる、
「ゲリラ部隊」
 と、国家との対立になってくる。
 相手が国家ではないので、国際法における、
「宣戦布告」
 であったり、
「国連軍を組織する」
 ということもできなかったりする。
 それでも、アメリカを中心として、軍を派遣したりしたが、実際には、
「弱い者いじめ」
 という様相を呈したところもあった。
 そんな時代背景があってから、平成に入ってから、学校などで、
「苛め」
 という問題が大きくなってきていた。
 確かに苛めというものは、それまでの
「苛め」
 と呼ばれるものとは明らかに違った。
 昔の苛めは、
「苛めっ子と、苛められっ子」
 という形で、明確になっていた。
 そして、苛める理由も、本人が分かっていないだけで、苛める側にはそれなりの理由があったりした。
 だから、和解する時も、お互いに分かり合って、大人の対応をできるようになっていたものなのだが、平成以降の苛めというのは、そんなものではなかった。
「誰が首謀者で、その理由もハッキリしているわけでもない。ムカつくから苛める」
 という形であり、もっといえば、
「苛める側も、学校の輪以外のところで、例えば親からであったり、世間から、冷たい目であったり、待遇を受けていることで、苛めというものをしてしまっている」
 というのが実情だったりする。
 だからといって、言い訳をしていいというわけではないのだが、そんな、
「負の連鎖」
 が存在するようになってきたのも、平成になってきてからだった。
 平成というと、時代としては、天災というものも多かったりした。
 特に日本では、大きな地震が続いたりして、さらに、大渇水があったりした時代があった。
 そんな頃、世の中がおかしくなってくるものなのだろうか。
「新興宗教団体」
 というものが起こした未曽有の犯罪もあったではないか。
「地下鉄に、毒ガスを撒く」
 という、日本だけに限らず世界的にも類を見ないと呼ばれた、大事件である。
「日本という国は、治安が安定した、住みやすい国だ」
 と言われていたものが、一気に崩壊した瞬間だっただろう。
 もっとも、この時代くらいから、日本で、叫ばれていた、
「○○神話」
 と呼ばれるものが、
「ことごとくウソだった」
 ということだったではないか。
 昭和末期の象徴と言われた、
「バブル経済」
 であったが、平成になってから、すぐに崩壊した。
 それまで言われていた、神話として、
「銀行不敗神話」
 というものがあった。
 というのは、
「銀行は絶対に潰れない」
 と言われていたのだ。
 バブル経済は、
「銀行が融資してくれて、その金がちゃんと利用されることで、経済が回っていき、そこで、利益がどんどん生まれる」
 という、まるで、算数のテストの満点のような時代が、このバブルの時代だったのだ。
「事業を拡大すればするほど、儲かる」
 というのが、この時代。
 だから、銀行も、
「たくさん融資すれば、それだけ利息で儲かる」
 ということで、どちらも、損がないという、そんな時代だったのだ。
 だが、一度歯車が狂ってしまうと、どうしようもなくなるというのが、いわゆる、
「自転車操業」
 というものであった。
 この、
「自転車操業」
 というのは、そもそもが、
「危ない商法」
作品名:邪悪の正体 作家名:森本晃次