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邪悪の正体

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 ただこれは、大人になってからいうことはできない。
「セクハラだ」
 と言われるからだ。
「大人の世界は面倒臭そうだ」
 と言われるが、子供の世界ではそんな、わだかまりはない。
「高校生くらいになったら、意識しなければいけないのだろうか?」
 と考えてみたが、
「それはあくまでも、その時になって考えればいいことで、今余計なことを考える必要はない」
 ということであろう。
「子供時代には、子供の考え方がある」
 ということである。
「背伸びしたって、しょうがない」
 というくらいに考えていたのだ。
 だからなのだろうか?
 大人になるまで、自分が、
「どういう人間なのか?」
 ということを黄にはしていたが、必要以上に考えないようにしていた。
 ただ、それも、
「考えることが無駄だ」
 という考えだけではなく、考えることで、
「自分のことが分かるわけではない」
 と考えたからなのかも知れない。
「世の中には、ムダという言葉はそんなに存在しない」
 つまりは、
「無駄ということを考えること自体がムダなのだ」
 という、まるで禅問答のような考えがあるのも、かすみという女の子の性格でもあった。
 時々、
「何かを考えていると、堂々巡りを繰り返してしまう」
 と感じることがあった。
 行き着いたつもりでも、そこから先、
「違う方向に考えを巡らせている自分というものを考えているということだからだ」
 と考えるからだったのだ。
 自分のことを、
「二重人格だ」
 と考えている思いには、変わりはなかった。
 これは、
「躁鬱症と言われるようになってからも、二重人格には変わりはない」
 と思っている。
 そもそも、
「躁鬱症と二重人格とは、別のものである」
 と思っていたからだ。
 ただ、それだけではなく、
「相対するもの」
 ということで、その両方を一緒に見ることができないということで、
「躁の状態の時に鬱の状態が見えないのと同じ」
 であり、
「ジキルとハイド」
 のように、
「ジキルが出ている時はハイドは寝ていて、ジキルが寝ている時に、ハイドが暗躍している」
 というような感覚が、
「躁鬱症と、二重人格」
 というものの間に、ひしめいているということではないか?
 と考えるのであった。
 それが、かすみが、
「ひょっとして、自分は躁鬱なのではないか?」
 と考え始めた頃で、大学生になってからくらいのことであった。
 その思いを結構しばらく持っていたようで、自分に疑念を抱きながら過ごしていても、どこかで妥協というものはあるということだ。
 大学4年間が、
「アッという間にすぎた気がする」
 ということにいくつかの理由があるだろうが、その中で、確実に影響していることとして、
「私が、躁鬱の気を持っているからだ」
 と思ったからだろう。
 さすがに怖いのか、不安であれば、いつでもすぐに調べることをモットーのようにしていたのに、
「それだけ怖いということだろうか?」
 と感じるようになったのだった。
 躁鬱というものがどういうものなのか?
 改めて考える時期がその時やってきていたのだろう。
「躁鬱の気があるのではないか?」
 と感じるようになってきたのが、高校2年生の頃だった。
 かすみは、その頃になると、
「何か、怖い夢ばかりを見ているような気がするな?」
 と感じていたのだ。
 この間は、男に襲われる夢を見たのだが、実際に、
「危機一髪」
 というところで目が覚めた。
 そして、
「ああ、夢だったんだ?」
 と感じたが、その時に一緒に感じたのは、
「夢でよかった」
 という感情ではなかった。
「もし、あのまま行っていれば?」
 という感覚だったのだが、それは、自分が、
「危機一髪だった」
 という意識をしっかりと持っているということである。
 つまり、
「記憶を意識が、凌駕している」
 ということなのかも知れない。
 吊り橋を渡っていて、
「後少しで渡り切れる」
 ということで迎えた安心感だったはずなのに、
「結果とすれば、最悪だった」
 ということであり、実際に見えていたものと、まったく違ったものが、目の前に見えていたということになるのだろう。
 目標がまったく違っていれば、自分がいるはずの場所にも、自分で信憑性がないという気持ちになり、どうしていいか分からなくなってしまうのだろう。
 そんなことを考えていると、かすみは、
「時々、記憶が途切れてしまう」
 ということに気付くようになってきたのだった。
 記憶が途切れるというのは、
「覚えていることを思い出せない」
 ということであり、その理由が、
「途中にまったく分かっていない」
 あるいは、
「記憶をたがえてしまうような、まったく別の意識が存在していることで思い出せない」
 ということなのか?
 という考えであった。
 かすみは、
「後者の方だ」
 と自分で考えるのであった。
 なかなか病院にいくこともなかったのだが、その気にさせてくれたのが、
「その男性に襲われるという夢」
 だったのだ。
 というのも、実はこの夢、半分は、
「正夢」
 だったのだ。
 かすみは、その日、予備校にいつものように、夜に出かけて、帰り道でのことだった。
 その時は、まったく意識もしていないし、いくら、
「あんな夢を見たとしても、あれは、ただの怖い夢でしかない」
 としてしか思っていないので、自分でも、まったくと言っていいほど意識しているわけではなく、
「油断していた」
 といってもいいだろう、
 見た夢が、
「正夢ではないだろうか?」
 ということが分かっていなかったというわけではなかった。
 というのも、
「自分が、似たような目に遭ったことで、夢がフラッシュバックしてきた」
 ということだからであった。
 実際に、ひどい目には遭ったのかも知れないが、あくまでも、フラッシュバックが強かったことで、その感覚が倍増し、まるで、
「耽美主義」
 を見ているかのような気分にさせられたのだ。
「耽美主義」
 というのは、どういうことかというと、
「道徳やモラル、倫理などを度返しし、とにかく、美というものが何事にもおいて、優先される」
 という考え方である、
 モラルや道徳に優先するのだから、それが、犯罪であっても、関係ない。
 昔の探偵小説の中にあった、
「猟奇殺人」
 ということで、
「犯罪に美を持ち込む」
 という考えが蔓延っていた時代があったが、それも、十分な、
「耽美主義」
 というものである。
 ただ、問題は、
「美」
 というものが、
「人によって見え方が違っている」
 というのも、真実である。
「皆が皆、花は美しい」
 と思うだろうが、他のもので、
「自分が美しいと思うが、他の人には、気持ち悪いという見方しかできない人がいる」
 というのも真実である。
 また、
「美しいものに囲まれていれば、美しくないものでも、美しく見える」
 という考えから、
「殺人を、美への見立てとしての猟奇殺人というものが、探偵小説に描かれることだってある」
 ということである。
 探偵小説というもので、昔の、
「変格派」
作品名:邪悪の正体 作家名:森本晃次