邪悪の正体
と思っていた。
もちろん、中には、
「ただの野次馬根性という人もいるだろう」
それでも、このリアルな臨場感には、さすがに圧倒されるだろう。
心の中では、
「他人事だ」
と思っていても、実際には、本当に、
「ちゃんと覚えておこう」
と、最後には感じるようになる人も少なくはないだろう。
その場から、金縛りに遭ったかのように、立ち去れない人もいるかも知れない。
かすみも、以前偶然、友達と一緒にいる時に、その光景を見たことがあったが、その時のかすみは、まわりの人間として見ていたというよりも、
「自分が患者になったような気になって」
見ていたのである。
そもそも、かすみは
「人の身に起こっていることを、まるで自分のことのように感じることが多い」
というタイプだったので、その時の感情は、
「無理もないことだ」
といってもよかったのだ。
だから、その時、
「癲癇というのは、こういうものなんだ」
と、その気になったつもりで考えることで、分ったような気がしていた。
しかし、患者が救急車に乗せられて、サイレンの音が遠ざかっていくと、次第に我に返ってくるのだった。
すると、それまでの感覚が、どんなにリアルであっても、まるで夢から覚めるかのように、感覚が薄れてくる。
「夢から覚める時ってこんな感じなのかしらね」
と、またしても感じさせられるのであった。
かすみは、
「夢を見ている時というのは、まったく普段と変わらない意識であって、目が覚めるにしたがって、夢として、記憶に格納されるので、思いだすことができないのだ」
と思っていた。
逆にいえば、
「夢で見ているのは、現実であって、夢から覚めないと、現実世界に踊れないから、夢は記憶として、自分の中に格納される」
と思っていた。
だから、夢というのは、
「思い出すことなど不可能なのだ」
と考えるのであった。
目が覚めてくると、
「夢の世界で覚えていることはない」
と思うのだが、次第に、
「怖い夢だけ覚えているんだ」
ということを感じるようになった。
というのは、ちゃんとした理由があって、考えていることであって、
「夢を見ているのが、現実だから忘れる」
と考えると、その逆に、
「夢を覚えているということは、現実ではない夢があり、それこそが、夢の真髄として、怖い夢がその象徴ではないか?」
と感じるのだ。
つまりは、
「本当の夢というのは、怖い夢のような、現実ではありえないことを見ることではないのだろうか・」
と感じるようになったのだ。
ただ、この考え方は、たいてい誰もが思っていることであり、
「忘れてしまう夢が、現実だ」
という風に考えるというのは、それだけ、
「他の人と違って、遠回りして考えているが、真理を掴んでいるという風に考えることができないだろうか?」
ともいえるかも知れない。
そういう意味絵、かすみは自分のことを、
「他の人とは違っているが、自分の中で考えている発想は、他人にはない発想なので、これほどうれしいことはない」
と思っているのだ。
かすみは自分のことを、
「他の人と同じでは嫌だ」
と感じている方だと思っていたのだ。
だから、少しでも考え方が他人と違うと、必死になって、その正当性を訴えるようになった。
だから、その気持ちが自分の中にある以上、かすみは、
「これこそが自分の性格」
と思うようになった。
この性格は、自分なりに好きではあるが、どこか不安な点がないわけではない。
「だって、人と違っていると、まわりからは変な目で見られるし、私も自己嫌悪に陥ることがあるので、損なことばかり」
と思うことが結構あったからだ。
そして、そんな気持ちになるということは、
「それだけ、損なだと思うことに、疲れと不安を感じるということであり、本来なら、きついはずなのに、それでも、この方がいいと思うのは、それだけ、他人のことを信用していないからではないか?」
とも感じるのだった。
そんなことを考えているうちに、
「私の性格って、本当に人と違うんだわ」
と思うようになり、それは、
「実際に嬉しい」
という思いと、
「やはり、不安が付きまとう」
という思いとの両面があるのだ。
この両面は、ずっと気にしながら来た。
この両面に気付いたのは、いつだっただろう。
交差点で、癲癇の患者が倒れているのを見た時にはすでに、その感覚はあったと思う。あの時は、確か中学生くらいだったので、その前というと、小学生の高学年くらいだっただろうか?
どちらにしても、子供の頃のことだったというのは、間違いではないだろう。
それを思うと、かすみは、
「私には、最初からあったのかも知れない」
と思ったのは、
「自分の二重人格性」
というものだった。
「私には明らかに、もう一人の性格があるような気がしている」
ということを思っていた。
この時は、
「まさか、躁鬱だなんて」
と思っていた。
人によっては、
「二重人格は、病気と一緒だ」
という人もいるようだが、確かにその通りかも知れない。
しかし、かすみは、そうは思わなかった。
それでも、自分が二重人格だと思っていなかったとすれば、それは嘘になる。
きっと心の中で、
「躁鬱症になるくらいだったら、二重人格の方がいい」
と思っていたようだ。
躁鬱症は、
「躁うつ病」
という言葉がある以上、明らかな病気である。
だから、嫌だったといってもいいだろう。
二重人格だと思ったのは、夢の感覚があったことと、中学生になってから、考え方が、両極端である事例であるのに、
「そのどちらも、考えられる」
と思ったことから感じたことであった。
中学生に入った頃というと、自分でも覚悟はしていたし、実際に突入すると、
「これが、あの……」
と自分でも分かってくるのを悟っていたのだ。
そう、
「子供から大人になる準備期間」
といってもいいだろう、いわゆる、
「思春期」
という期間のことである。
この思春期というのは、
「大人になるための準備期間」
ということと、
「考え方が、身体の発育に追いついてくる」
ということではないかと考えるのであった。
躁鬱症?
そんな思春期くらいの時期は、性別によって、さらには、個人差も働いてくるといってもいい。
特に、男女差としては、女性の方が、身体的発育は圧倒的に早いと言われている。
女の子の中には、小学生で、すでに初潮と迎えていたり、ブラジャーが必要な子もいるくらいではないか。
男性が、肉体的に変化してくるのは、ほとんどが中学生に入ってからのことで、身長も男性よりも女性の方が、伸びるのが早かったりする。
さらに、声変わりなど、男性は、中学に入ってからがほとんどで、女の子のような声の男の子もいるので、女の子の中に男の子が味っていたとしても、ピンとこないということが結構あったりするのではないだろうか?
それを思うと、中学時代に先生の言っていた、
「女の子の方が発育が早いことが多い」
というのも分からないでもない。