小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

邪悪の正体

INDEX|12ページ/19ページ|

次のページ前のページ
 

 見逃してはいけないと思って、見逃さなかったものが、
「人間」
 ということだったから、
「自分の目に間違いはない」
 と感じ、
「石ころから見つけ出した、ダイアモンドの原石ともいうべきその人が、梶原つかさだったのだ」
 つかさというのは、絶えず、かすみを見ていた。
 そのことをかすみに告げると、
「何言ってるの。かすみは、自分で考えているほど、まわりに影響を与えているわけではないのよ。私には、まわりが皆かすみを意識しているのが分かった気がしたの。だから私も、負けてはいけないと必死に、かすみを見ていたのよ」
 というではないか。
「さすがにそこまで」
 とは思っていない。
「私は、まわりの意識しない人を皆、言葉は悪いけど、皆石ころだと思っていたのよ」
 と、つかさに告げるが、もちろん、自分の中で考えている、
「石ころ」
 というものが、何たるかということを話しておいたことで、つかさも、自分の中で理解することができたのだろう。
 と思うのだった。
 そもそも、かすみとつかさの出会いというのも、若干奇妙なものだった。
 その奇妙さがあってか、断捨離というものに掛けなくても、本来なら、
「フリーパス」
 で、つかさを選ぶことができるのだろうが、最初は、何と石ころ側に、彼女はいたのだ。
 だが、そのおかげで、
「つかさという女は、自分の意識に引っかかっているという感覚を、身に着けることができた」
 といっても過言ではないだろう。
 だから逆に、
「石ころという存在を意識することで、わざと。つかさを必要以上だと思うくらいに意識してしまうのだろう?」
 と思うのだった。
 つかさが、かすみの意識に引っかかった時、つかさも、同じように、かすみのことを意識の中に引っ掛けていたのだ。
「お互いに意識した時が一緒だったのではないだろうか?」
 と感じた。
 つまりは、
「相手の目で意識したのだとすれば、
「どちらかが先に意識したことで、相手が石ころの存在に気付き、次の瞬間には、石ころだと見られたことで、相手にこちらを見せるような感覚が働いたのか?」
 つまり、最初に石ころを意識して、2人が、お互いを意識するようになるまで、
「三段階必要なのではないか?」
 と、いうことになるのだろう。
 だが、実際には、そんなにたくさんの段階を必要としたわけではなく、元々の石ころを自分が意識するのと同じ感覚で、相手も意識をしてくれた。
 ということは、相手がこちらを意識するというのは、
「実際に感じている自分を見ているわけではないのか?」
 ということを考えた。
 一種の、
「パラレルワールド」
 というようなものであり、
「平行世界」
「平行宇宙」
 という、
「同じ世界線で、別の世界線が広がっているようなものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 というのは、
「まったく同じに見える世界が、存在しているわけであるが、一般的に、次の瞬間というものが、有限なのか無限なのか?」
 ということを考えると、果たして、
「無限だ」
 と言えるだろうか?
 確かに理屈としては無限だと考える方がありえることであろう。
 例えば、
「合わせ鏡」
 という発想を考えた時である。
「自分の左右、あるいは、前後に鏡を置いた時、どのように見えるのか?」
 ということであるが、前後の場合は説明しやすいので、前後で考えるが、
「まずは、目の前に自分が写っているのを感じることができる。そして、その向こうには、自分の後ろの鏡が写っている。その後ろの鏡には、後ろ向きの自分が写っていて、その自分の正面を、目の前の鏡が映している」
 というような、一種の、ループに入っているのだった。
 その時、鏡は理論上は、
「無限」
 なのである。
 しかし、絶対的な無限であるはずの発想に、
「待った」
 を掛けるものがあるのだが、それが、
「限りなくゼロに近い」
 という発想であった。
 鏡に写っていく姿は、どんどん小さくなっていくが、最後には、ゼロになるわけではない。
 なぜなら、ゼロになるということは、
「そこで終わってしまう」
 ということであり、その瞬間、
「無限」
 という発想はなくなってしま。
 そして、この発想は、この世で起こる事象については、少なくとも、必ず言えるということではないか?
 ということなのである。
 この発想は、
「数学」
 いや、
「算数」
 というものの発想で考えることができる。
 いわゆる
「割り算」
「除算」
 というものであるが、
「整数に限って考えると、どんなに割って小さくなったとしても、決して答えがゼロになるものはない」
 ということである。
 あるとすれば、
「ゼロで割る」
 ということなのであろうが、この発想を実際にやってみると、
「理論的に、不可能である」
 という結論に至る。
 特にこれをコンピュータの世界でやると、コンピュータですら、求めることのできない回答だということで、
「除算例外」
 として、プログラムエラーが発生して、バグを引き起こすということになるのである。
 それが、
「無限への証明だ」
 と言えるだろう。
 普通に考えると、
「無限」
 などというものは、あり得ない。
 と考えられるのだろうが、こうやって、数学的に考えると、
「無限というものは存在しない」
 という証明をすることの方が難しいと言え、
「有限というものの証明」
 というのが、どれほど難しいものかとうことは、この、
「除算例外」
 というものを考えた時にいえるのではないだろうか?
 コンピューターが、
「不可能の言い訳」
 として、
「除算例外というものを儲けているのだ」
 とすると、
「無限というものを、果たして否定するには、どうすればいいのか?」
 ということで、
「この世に存在することの、例外を見つけるしかない」
 ということになるのだろう。
「ひょっとすると、多次元として存在しているものは、その例外が発生した時点で、どんどん、増えていくものではないか?」
 と考えられたのではないか?
「一次元に限界を感じると、二次元の発想。二次元というものに、限界を感じると、三次元の発想」
 たまたま、三次元が、我々のいる、
「縦横高さ」
 という基準を持った世界へとたどり着いただけで、その基準が、
「たまたまだ」
 ということになれば、
「それはそれでいいのではないか?」
 ということで、その時、三次元で一段落したのではないだろうか?
 しかし、科学者の研究において、三次元では説明がつかないことが起こってきたので、
「四次元」
 という発想が生まれてきたのではないだろうか?
 それは、偶然ということではなく、必然だったと、考えるのは、無理もないことなのであろう。

                 一蓮托生

 最近は、こういう発想が多く、最近はやり出した、SNSというものに、こういう話を呟くようになると、自分をフォローしてくれる人に、時々意見をしてくれる人ができたのだった。
 その人は、どうもそのSNSの中で、SNS特有の話で、自分で思っているよりも、余計なことに巻き込まれたようで、悩んでいるということを、仲良くなって聞かされたのだった。
作品名:邪悪の正体 作家名:森本晃次