邪悪の正体
「うんうん、よくわかった」
と自覚できるのであろう。
かすみは、自分が躁鬱状態の、
「精神疾患を患っている」
と感じた時、それを簡単に受け入れることはできなかった。
「どうして、今になって、こんな症状になるんだろうか?」
と考えた時、
「自分の運命」
というものを呪いたくなった。
「だって、そうじゃないか? 私が何をしたというの? 他の人と同じように生きてきたのに、私だけ、こんなにつらい思いをしないといけないなんて」
と感じたのだ。
普通にしているつもりでも、
「急に何をやっても、うまくいかないような気がしてきたり」
あるいは、
「まわりから、嘲笑われているか」
のように見られたり、
「不安で仕方がない」
という気持ちになったりしなければいけないのは、なぜなのか?
そんなことを考えていると、
「どうして、自分だけ?」
というところを感じられて仕方がないのだった。
だから、まわりの人を近づけないという気持ちになり、一人でいることが多くなった。
しかし、根本的には寂しい気持ちがあるのは当たり前なのに、なぜ、このような気持ちになるのか、そのギャップが大きかった。
特に、不安で仕方がない時、この思いは強く、人と一緒にいても、まわりに誰もいなくなっても、どちらも不安というものから逃れることができない。
「だったら、どっちがいいのか?」
ということになるのだろうが、結局、その結論は出るわけではなかった。
「私は自分の運命を受け入れるしかないのか?」
と考えると、
「呪いたくなるほどの、運命を感じると、受け入れたくない気持ちになっていくのだ」
という思いがこみ上げてくる。
「どうして、ここまで?」
と考えると、一度不安を感じると、
「スパイラルに襲われてしまうということが、不安につながり、不安なことが、スパイラルを誘発する」
と考えると、受け入れられないというのも、分からなくもないということであった。
そんなことを考えていると、
「とにかく、一度一人になって考えないと、余計なことを考えない」
と思い、一人になることを選ぼうとするのだが、一人になるということの恐ろしさというものが、
「今だから分かる」
とも感じられるのだ。
「一人になりたい」
という思いを抱きながら、一人になることの恐怖から、とてもではないが、自ら進んで一人になることを望むことはできなかった。
一人になるということは、
「寂しさが寂しさを負う」
ということ、さらに、
「不安が不安を募る」
というように、辛さの原因が、さらに元々の原因であるという、まるで、
「マトリョシカ人形」
のようなものだといえるのではないだろうか?
寂しさも不安も、どちらも恐ろしいが、どちらかというと、
「不安」
が恐ろしいのではないだろうか?
積み重ねて募ってみると、倍増するくらいの辛さは、不安の方にある。
「ターゲットとしては、不安を取り除く」
ということに絞る必要があるようだった。
ということになると、ある程度の寂しさは、
「犠牲にしなければいけない」
ということではないだろうか?
そんな鬱状態の時、かすみは、一人の女性と知り合った。
彼女の名前は、梶原つかさと言った。
かすみは、その頃には、不安に苛まれる状態を嫌って、まわりの人を、
「断捨離」
に走っていた。
後になって、医者から聞いた話だと、
「躁鬱の時は、どうしても、不安が恐怖に変わった瞬間、まわりが怖くなり、距離を保つだけでは我慢できなくなることで、断捨離をしなければいけないことになる時期というのがあるんですよ」
というではないか。
「恐怖というのは、一度襲い掛かってくると、払いのけることは難しくなるので、それ以前に、自分の中で整理できるだけの、土台を作っておかなければいけない」
と思うのだ。
それは、悪いことではないし、間違ってもいないだろう。
しかし、問題は、そのやり方である。
「本来であれば、自分を助けてくれるはずの存在である人を断捨離してしまわないとも限らない」
ということで、
「怖いと思ってしまうこともないともいえない」
ということだろう。
それを思うと恐ろしくなり、恐怖を感じることで、
「せっかくの断捨離だというのに」
ということで、恐ろしくて何もできなくなるのだった。
断捨離というものをしていくと、気が付けば、本当に残っている人は、ほとんどいなくなってしまった。
残っている人の選択は間違っていなかった。
というのも、我に返って考えた時、
「自分が残したい」
と思っていたはずの人と、さほど変わりはなかったからだ。
「まるで正夢」
という感覚に襲われるようで、
「知っている人のそのほとんどが、世の中で、自分が断捨離で残した人なのだ」
というほどに思えてきて、
「それ以外の人たちは、もはや見えていない」
というところまで感じるのだった。
「そばにいるはずなのに、見えていない」
あるいは、
「見えているはずのものを意識することができない」
という感覚を、
「石ころのようなものだ」
と感じるようになっていた。
石ころというものは、
「目の前にあって、そこにあるということは、視覚では捉えている」
というはずなのに、
「そこに石ころがある」
という意識を持つことができないのだという。
普通に目の前にあるものであれば、視覚として、捉えることはできるだろう。それを、
「見えている」
というのであるが、だからといって、
「そこにあるのは、石ころだ」
という意識を持つことができるということではないようだ。
「視覚で捉えるということと、そこにあるものを意識する」
ということは、
「感覚を脳に伝える、本能的な動作であるはずなのだが、石ころのようなものは、視覚が意識をつなげる」
という一連の行動を妨げるものであったりする。
ということは、
「視覚で捉える」
ということと、
「意識する」
ということは、一連ではあるが、そこに、必ずしも関連性はないということになるのではないだろうか?
と言えるのだった。
ということは、
「石ころのようなものの中にも、ひょっとすると、自分にとって大切なものもあるのではないか?」
と考えてしまう。
正常な精神状態であったとすれば、きっと、こんなことを考えたりしないだろう。
「自分にとっての石ころは、石ころでしかない」
と思うからだ。
それが自信をもって判断できるという、感覚で、そこに、躁鬱症における、
「大いなる不安」
というものは存在しないことになる。
それだけに、躁鬱症の時は、
「石ころ」
というものが気になる。
かすみは、そんな石ころのような存在を無意識のうちに感じようとしていた。
そして、本来なら、石ころなどではない。自分にとっての大切な人として、
「見逃してはいけない人」
というものがあるということを信じ、石ころにも意識を向けるようにしたのだった。
その意識が、
「功を奏した」
といってもいいのだろうが、少なくとも、その時は、自分に自信をもっていいと思うほどに、
「成功」
というものを感じさせられたものだった。