未来への警鐘
ということで、産廃工場で鬼ごっこをするという習慣ができたのだった。
その鬼ごっこで遊んでいた子供が、結構危ないことになったりするのは、大人であれば、すぐに分かるというもので、学校の先生や親がある程度、口を酸っぱくして、
「あのあたりで遊んではいけません」
と言われると、子供というのは、反発したくなるものだった。
「どういうこと?」
と聞くと、
「あそこは危ないものがいっぱいあるから」
というだけで、具体的なことは話してくれない。
大人とすれば、
「何でもいいから、近づかなければいいの」
と、少々、説明するのが億劫という感じなので、いくら言っても子供には逆効果というわけだ。
子供としては、
「なぜと聴いても、ハッキリとした理由を言えないということは、理由はハッキリしないんだ」
ということになり、
「だったら、こっちも気にすることなんかないんだ」
とばかりに、どんどん、産廃工場への立ち入りで鬼ごっこをするようになったのだ。
まさか、工場の方も、子供たちが遊びにきているとも思っておらず、そもそもが、他で出たものを、トラックで運びこみ、ここに捨てにくるだけのことなので、そんなに頻繁に大人が出入りしているわけではない。
午前中くらいに、トラックがひっきりなしにやってくる時間帯があった。子供たちが遊ぶのは夕方くらいなので、ほとんど、ここには誰もいない状態で、子供たちは遊び放題だった。
大人の方としても、
「作業中に子供が入ってきさえしなければ、危なくない」
ということになっているので、さほど気にすることもなかった。
そのため、
「危険だ」
と口では大人は言っているが、実際には、危険でもなければ、立ち入って、大人に咎められるということもなかった。
特に、大人が言っているのは、当たり前のことを当たり前に言っているだけであって、別にそれ以上のことはなかったのだ。
だから、子供の方も、
「なんだ、大したことないじゃないか。大人って何でもかんでも反対するけど、その理由を言えないようなことは、子供としては、無視すればいいんだ」
ということになるのだろう。
それを思うと、
「大人の都合で、子供を束縛されてしまうというのは、溜まったものではない」
と感じるようになっていた。
これは、悪しきことであり、どこまで大人を信じればいいのか分からないというのは、子供としても、厄介なことではあったのだ。
だが、
「今回は別に大丈夫だ」
ということで、完全に油断していただろう。
大人の方、親や学校の先生としても、その時間が、工場では、稼働時間外ということで、危険性は少ないと判断したのか、それまでのように執拗には言わなくなっていたのだ。
それがまずかったのか、
「あんな事件が起こった」
というわけだが、その事件というのが、子供にとって、まさに、
「命の危険にさらされる」
ということだったのだ。
「大人が気づかないことを子供が気づくわけはない」
と、子供は思う。
「実際に遊んでいるわけではないので、大人は気づくはずもないので、子供が気づくはずだ」
ということを、大人も子供も考えていた。
そうなると、危険が目の前に迫っていたとしても、それはそれで、分かりっこないといってもいいだろう。
今回の事故がまさにそれだったのだが、今回の事故というのは、
「不可抗力だった」
といっていいものかどうか、微妙なところではあった。
ただ、実際に、裁判になり、最後は無罪になったので、結局、曖昧になったといってもいいだろう。
この事故は、後から考えれば、
「起こるべくして起こった事故」
といってもよかった。
むしろ、
「どうして誰も気付かなかったのか?」
というのが、問題なのかも知れない。
そんなことを考えていると、その時のことが思い出されてきた。
まず、あの日は、学校から帰ってきて、
「いつもの時間に、いつものように、まるで判で押したような鬼ごっこが始まった」
ということであった。
人数も、メンツもいつもと同じなので、
「何かが起こる」
という感じではなかった。
というのも、
「子供たちも、何かが起こるとは思っていなかった」
ようで、いつもと変わらない、
「鬼ごっこ」
が始まったのだ。
鬼ごっこというよりも、これだけ、
「隠れるところが多い」
ということで、
「鬼ごっこ」
というよりも、
「かくれんぼ」
と言った方がいいかも知れない。
それは、本人にも分かってることであり、だから、
「本当はそれが怖い」
と思っていたはずだった。
しかし、大人もそのことを失念していて、失念したことがそのまま起こってしまったということで、大人とすれば、
「悔やんでも悔やみきれない」
ということであった。
ただ、しいていえば、死人が出なかったというのは不幸中の幸いで、この事件によって、被った大人側の損害は、実は尋常なものではなかったのだ。
というのも、そもそもの間違いは、ある意味、
「偶然」
というものから来ているのであった。
「いつもの時間のいつもの遊び」
だったはずなのだが、実際には、
「まったく同じ」
などということがありえるはずもなく、
「大丈夫なのだろうか?」
という懸念をすべての人が忘れていたわけでもなかっただけに、大人の皆が感じている後悔というのは、その人それぞれだったのだ。
今回は、
「事故と言っていいのか、事件と言っていいのか?」
というところが曖昧だった。
事件だとすれば、
「その責任の所在がどこにあるのか?」
ということであるが、それが分からないと、
「誰の責任」
ということで、責任を負う人間を特定できないことになり、そうなると、最終的には、
「事故」
という形にしかならないだろう。
それを考えながら、今回の事故を振り返ってみることにしよう。
一番の間違いとすれば、
「普段はないはずで、あったとしても、本来であれば、カギをかけて捨てなければいけないものだった」
というものなのだが、捨てた人間とすれば、
「カギなんてもの最初からない」
ということであった。
しかし、業者側は、
「捨てるのであれば、カギがないなら、開かないように工夫をして捨てなければいけないという法律、といっても県の条例があるのだから、それに従わなければいけない」
ということになるのだが、それを分かっていなかったようだ」
というのが、その理由だった。
ということになると、なかなか、議論としては、うまくいかない。最終的には裁判ということになるのだった。
この事件で、問題となったものというのは、冷蔵庫だった。
その冷蔵庫は、本来なら、ちゃんと閉まった状態で、廃品置き場に置かれていたのだったが、業者にここまで運ばれた時、他のモノと一緒にして、荒々しく運ばれたのだ。
それはm
「どうせ捨てるものなのだから」
ということで当たり前のことだったはずで、
「ここに来るまでの間か、この工場で、振り分けられた時、壊れたのかも知れない」
ということであった。
実際に、ここに捨てられるものは、カギが壊れているというものなどは、当たり前のごとくであった。