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 ということだけになってしまっていることに気付かないことがある。
 そういう意味で、
「石ころ」
 のようなアイテムがいるのだ。
 つまり、
「いくら一生懸命にやっていても、まわりからは意識されない。要するに、オーラというものがまったく発散されることはない」
 ということであった。
 石ころを身にまとえば、
「見えているのに、誰にも気づかれない」
 ということである。
 つまりは、透明人間というわけではない。
 用明人間には、まったく見えないということだけしか、武器はないのだ。
 しかし、石ころは、逆に見えているのだ。
 昔、ある天文学者が、
「ある星というものを創造したことがあった」
 というのを聴いたことがあった。
「星というものは、元来、自分から光を発するか、あるいは、光っている星を光を反射させ、光っているように見せることで、自らの存在を、他の星に見せているのであろう」
 と言われている。
 しかし、この星は、自らで光を発するわけではなく、光の反射もしない。それどころか、取りこんでしまうのである。
 結局は、その星は、誰にも認知されることなく、、
「見えない、邪悪な星」
 として君臨することになる。
 何と言っても、そばにいても、その存在も気配も分からないのだ。
 気が付けば、その暗黒の星がすぐそばにあって、
「地球にぶつかっても、ぶつかって、自分が死んでしまう瞬間しか分からないのだ」
 ということだ。
 つまり、何がどうなったのかということを考える時間はないのかも知れない。
「それとも、この世は、それくらいのことを、死に際に考えさせてくれるくらいに慈悲深いものだということになるのだろうか?」
 などということを考えてしまう。
「本当に、こんな星ってあるのだろうか?」
 と聞くと、
「どちらの確率が高いか?」
 というと、
「ほぼ同じくらいなのではないか?
 と考えられるだろう。
 星というのは、面白いもので、よく、
「○○光年」
 などというが、これは、
「光の飛ぶ速度」
 について書いているものである。
 つまりは、
「今自分たちが見ている星の瞬きというのは、距離を光の速度で割ったその時間の間に飛んできた」
 ということになるわけなので、
「100光年」
 ということであれば、
「ちょうど、百年前に光った光を今見た」
 ということになるわけである。
 これが、1000年前ということであれば、時代的には、ちょうど、西暦1000年を少し超えたくらいになるので、時代的には平安末期くらいになるだろうか?
 それを考えると、1000年も経っているのであれば、今の光がくるのは、1000年後ということになる。
 そう考えると、今その星が、本当に存在しているのかどうかということは、何ら保証がないということだ。
 だから逆に、向こうの星が、今、こちらで光っている地球を見ることができるのかどうか、分からない。何といっても、
「地球という星が、1000年後に存在しているのかどうか。分からないからである」
 と言えるだろう。
 それを思うと、実に不思議なものであるが、さらに、ここでややこしい考えを入れるとすれば、アインシュタインで有名な。、
「相対性理論」
 ということの、
「速度と時間の関係」
 ということに関わってくるのではないだろうか?
「浦島伝説」
 であったり、昔、アメリカ映画であった話などが、問題になってくるのだが、
「速度が速い物体に乗っかってしまうと、時間の進みが遅くなる」
 というのが、相対性理論の考え方であった。
 つまり、宇宙ロケットなどで、宇宙に、光速で飛び出して、どこかを一周して回ってくるとすれば、普通で考えれば、例えば、3年くらいで戻ってきたとして、これを相対性理論の計算でいけば、数百年経過したという計算になるというわけだ。
 だから、浦島太郎も、数日間竜宮城に行っていただけなのに、戻ってくれば、数百年g経っていたという理屈である。
 さすがにちょっと大げさな計算ではあるが、いくら何でも、アインシュタインのような計算ができるわけではないので、理屈だけ踏襲し、時間は曖昧ということなのであろうか?
 そんなことを考えていると、
 ただ、実際に、
「宇宙は無限ではない」
 という考え方があり、さらには、
「宇宙は一つではない」
 という発展形がある。
 さらに、
「宇宙は、数億個あるのだ」
 ということが言われていて、それを、
「マルチバース理論だ」
 ということになるようだ。
「一つの宇宙がそれぞれの節目で爆発して、たくさんに別れてしまった」
 ということになるのではないかという考え方もあるようで、面白いのではないかと考えられるのだった。
 宇宙理論というのもいろいろあって、どう考えればいいのかということを思うと、生物の世界というのは、意外と狭いものだといえるのではないだろうか?
 湯本博士は、そんな壮大な研究も頭に描いていたが、最近は、ライセンス契約を結んだ薬品の研究を、別角度から見るようになった。
「惚れっぽい薬」
 という副作用を発見したのも、実は湯本博士だった。
 それを研究員に話をすると、
「研究を集中させて、早く商品化に結びつけるようにした方がいいのではないか?」
 ということをいう人が多かった。
 確かに、湯本博士の考え方も、
「研究を迅速に」
 ということには賛成だった。
 確かに、研究を迅速にすれば、賞品かということも早くなるだろう。
 しかし、博士の目論見はそこにあるのではなかった。
「研究を迅速に進めながら、さらなる副作用の発見が大切だ」
 ということである。
 そもそも、これは薬の副作用の産物なので、さらなる副作用を気にしなくてもいいというのは、一つの考え方だが、果たしてそうなのか? 湯本博士は、それが気になるのだ。
 副作用には二つの意味が存在し、今回のように、
「副作用を持って、さらに、利用できるものを発見する」
 という考え方と、さらには、
「副作用が、人間に害を与えないものかどうかの見極めである」
 ということだ。
 それが、臨床試験に繋がったり、さらには、医学部門でのさらなる研究に繋がらないとも限らないからである。
 医学界において、一番の関心事ということは何であろうか?
 湯本博士とすれば、
「世の中にたくさん存在する、難病と言われるものを、少しでもなくす」
 ということが一番最初に思いつく。
 その中で博士自身が注目していることとして考えられるのが、
「副作用」
 であった。
 普通、
「副作用」
 と呼ばれるものは、結構厄介だったりすることが多かったりする。
 本当は、病気を治すという目的で開発されたものだが、その強さ、さらには、人間の中にある抗体とどうしても反応うするので、過敏な反応をしてしまい、想像を超える反応を起こす人もいるだろう。
 特に、重い病の治療薬としての、
「抗がん剤」
 を服用しなければいけない人などは、その副作用の強さで、身体に多大なる影響を与えることがあると言われ、
作品名:禁断のライセンス 作家名:森本晃次