禁断のライセンス
同情の余地があるかと言われると、たぶんないだろう。仕事を辞めるなり、精神が病んでいると思えば、病院に行くなど、いくらでも方法はあったのではないか?
もちろん、企業ぐるみで、ブラックだったのであれば、少しは事情が違ってくるのだろうが、辞めれる余裕があるのであれば、辞めればいいし、病院に行く精神的な余裕があればいけばいいのだ。それすらできないほどひどい状態だったというのであれば、今度は、それを許さなかったまわりが悪いということになる。
そうなると、
「会社ぐるみ」
ということになるが、本人の罪が軽くなるということでもない。
「まわりが悪いからと言って、本人が悪くないというのは、あまりにも安直な考えではないだろうか?」
ということになるのである。
昨年だっただろうか、最初に、
「老人ホームでの虐待事件」
という、衝撃的なニュースが飛び込んできたと思うと、今度は別の地域で、
「またしても、老人ホームでの虐待事件発生」
ということになり、そこから、
「またしても」
という記事が、週刊誌の紙面をにぎわすことになるのだ。
というよりも、事件の多さもそうなのだが、どうも、類似の事件が多いのに、少しビックリする人も多いのではないだろうか?
「まるで、示し合わせたかのような内容」
そのことを考えると、
「それだけ、人間の本性というのは、性癖的には、究極で同じものを求めることになるのだろうか?」
ということを考えさせられてしまう。
だが、そんなこともないだろう。
老人ホームというのは、ある意味、
「隔離された空間」
と言ってもいい。
ただ、それを考えると、もう一つ気になるのは、
「囚人を収監していて、さらに、まわりと隔絶された空間」
ということで、
「刑務所」
というのが頭に浮かぶ。
昔のドラマなどでは、前に入った人が仕切っていて、新入りにはリンチのようなものがあるというような映画が結構あったりしたが、守るべき刑務官が、今回の老人ホームと同じように、
「体罰のようなものを与えている」
ということになっているのかも知れない。
そう感じると、何がなにか、辻褄どころの話ではなくなってしまうのではないだろうか?
薬の服用
そもそも、少子高齢化が進むことが問題であり、そのために、
「老人が増えて、その老人を養うための子供世代が少ない」
ということが問題なのである。
ひょっとすると、考えすぎかもしれないが、老人ホームにて、入所者を虐待している人の、
「自分勝手な正当性」
というものが存在するのだとすれば、
「老人が増えるから、俺たちの支える負担が増えるんだ。だから、こうやって老人をいたぶるのも、無理もないことなんだ」
ということであれば、正しいわけのない理屈であり、そもそも、老人をいたぶったところで、状況が変わるわけではない。
「老人が減って、若者が増えるわけではない」
ということだ。
若者からすれば、
「俺たちと同じように働ければ、それでいい」
と思っているかも知れない。
さすがに、老人ホームで働いている人は、そこまで感じるわけはないのだろうが、考えてみれば、
「そんな老人たちを、なぜ俺たちが助けなければいけないんだ?」
と考えたとすれば、そこに、自分の中で矛盾が生じ、どうすることもできない苛立ちが生まれたとすれば、虐待に走ったという気持ちも分からなくもない。
かといって、自分の仕事、立場だからできることであって、それこそ、考え方が本末転倒であり、
「決して許してはいけないことだ」
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「俺にとって、老人を苛めることが、自分を精神的に病ませていることを証明しているのと同じではないか?」
と考えないのだろうか?
と思えるのだった。
考えてみれば、
「自分だって、放っておけば老人になるんだ」
ということである。
その時に、自分のこの行為が、まるで公然のようになり、
「世間に知られなければそれでいいんだ」
ということになったらどうだろう?
しかも、実は、
「あいつが始めたんだ」
などということがバレてしまうと、
「何をされるか分からない」
という恐怖がまとわりついたまま、死んでいくというシナリオが見えてくるのを感じることはないのだろうか?
今のように、バレてしまい、社会的にも公表されてしまうと、
「犯罪者の烙印を押される」
というだけではなく、その罪状が、
「老人への虐待行為」
である。
自分が老人になった時、報復を受けないとも限らないだろう、
なぜかというと、
「今の段階でも、老人介護という職業を、自分の手で、ひどいものだということで、他の善良な人をも巻き込んでしまったことで、どれだけの人間の人生を狂わせてしまうのではないか?」
ということになるのである。
それを考えると、
「因果応報」
という言葉があるが、最強に強烈なブーメランが戻ってくることになるのではないだろうか?
さらに、保育園での、いくら不可抗力かも知れないが、だからと言って許されるものではない。
何と言っても、
「子供が死んでいるのだ」
それを、不可抗力だったと言って許してしまうと、民主国家としては、あり得ないことになってしまう。
さらに、問題は、
「不可抗力というのであれば、いかにすれば起きないようにするか?」
ということであり、そのあたりを、行政指導を行っている最中に、またしても、同じような事件が起こってしまったのだ。
不可抗力なので、連鎖というのはあるのかも知れないが、それならそれで、逆に、
「不可抗力でも、重い罪」
ということにして、今回の事件を引き起こした人を、
「最初の見せしめということにしてしまい、重い罪によって、まわりを諫める」
ということでもしないと、また繰り返されることになる。
「見せしめは可愛そう」
というやつもいるかも知れないが、
「いやいや、今度からこれが普通になるのだから、それだけの罪を犯したということでキチンと処罰しないと、今回のように、繰り返させることになるんだ」
ということになるのだろう。
ただ、だからと言って、本当に罪が重くなったのかどうかというのは分からないが、今回の場合は、
「業務上過失」
などという生易しいものではなく、
「殺人罪」
として、
「厳正に」
かつ、
「公平に」
という裁定を子出さなければいけないのだろう。
そういう意味で、今回の事件は、
「連鎖を引き起こした」
という意味でも、厳正な処罰というのが、当然のこととなるだろう。
特に最近では、あおり運転などによる加害者の処罰であったり、飲酒などの処罰などは、今までにないくらいの厳正な処罰になっている。
そういう意味では、道交法だけではなく、刑法関係においても、いくら、
「過失に近い」
とは言っても、社会的反響の大きな事件は、それなりに処罰をしないと、世間からも苦情が出てくるのも当たり前のことであろう。
さらには、
「刑法犯などにおいて、言われることとして、厳罰に処すことを望む」
ということである。
特に、問題は、