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禁断のライセンス

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 好きなものを先に食べてしまうと、どういうことになるかというと、
「ある程度お腹が太ってしまってから、好きでもないものを食べることになるので、食いたくなくなる」
 ということになるだろう。
 逆に、好きなものを後回しにすると、
「好きでもないものであっても、空腹時なら食えなくもない」
 ということで、結局すべてを食べ終われるということだ。
 つまり、先に遊びに行ってしまうと、たのしかったことでお腹がいっぱいになり、嫌なことをする気力も体力もなくなっているということである。
 これが、逆だと最初から、嫌いなことをやるわけなので、好きなことを、腹いっぱい食べれないかも知れないが、少なくとも、宿題を気にすることなく、楽しめるという意味で悪いことだとはいえないだろう。
 そうなっていると、
「一体どっちがいいんだ?」
 ということを考えると、やはり後半の無難さが一番いいと思えるのではないだろうか?
 そういう意味で、
「どっちがいいのか?」
 というよりも、結果としては、
「すべてを合わせれば、1になる」
 という発想で、片方を満足させると、片方はやらないということになる、
「どちらもやろうと思うと、結果、どっちも中途半端になってしまう。それくらいなら、たのしいことだけをすればいいんだ」
 という考え方と、
「嫌なことでも終わらせておけば、安心して遊びに打ち込めるという意味も安心感があるだけで、満足に近づくのではないか?」
 ということを考えられるような気がするのだった。
 それが、母親が家にいるという場合の、子供の行動パターンであるが、今は、母親が家にいるわけではない。保育園であれば、子供をある程度の時間まで預かってくれるということもあるが、他ではそうもいかない。
 このあたりの問題もある。
 何よりも、もっと大きな問題としては、
「子供を預けたいと思っている親よりも、保育園の数が圧倒的に少ない」
 ということだ。
 特に、
「不認可」
 と呼ばれる、いわゆる
「もぐり」
 と言われるような保育園などでは、確かに募集を掛けているかも知れないが、一歩間違えれば、
「幼稚園バス置き去り死亡事件」
 というようなことになりかねないと思うと、ここでの妥協は、一生の不覚となってしまい、人生に大きな悔いを残したまま、永遠に消えない苦しみを背負っていくことになるかも知れないのだ。
 そんなことを考えていると、ふと考えることがある。
 というのは、
「もっと単純に考えればいいのではないか?」
 ということである。
 というのは、
「そもそも、子供をつくろうとするから、こんないろいろな問題が出てくるというのだ」
 ということである。
 子供さえいなければ、保育園の問題を考える必要もないわけで、もちろん、
「子供がほしい」
 と願っている人は、考えなければいけないことであり、避けては通れない問題だといえるだろう。
「子供が可愛くて仕方がない」
 という人や、
「名門の家族で、子供が絶対にいないといけない」
 ということを義務付けられているようなところはしょうがないだろう。
 だが、後者のような家庭であれば、基本、お金はあるはずなので、何も保育園に行かなくとも、出張できてくれる、いわゆる、
「家政婦」
 のような仕事の人を雇えばいいだろう。
 そういう仕事は協会のようなものがあり、登録してあるだろうから、そこに頼めば適切な人が来てくれることだろう。
 そうなると、
「待機児童」
 などという問題はなくなる。
 どちらにしても、無認可の保育園というのは、話に聴いただけで、結構悪質なところもあったりするようで、どこまでが安心できるのかというのも難しい。
 今回のような、
「保育園」
 という問題でなくとも、
「老人ホームの問題」
 というのも結構大きかったりする。
 というのも、一度、虐待などということで社会問題になったところがあったが、するとそれから、どんどんと出るわ出るわ。いろいろなところでの虐待が、明かるみになってくる。
 一つのところで問題になるというのは、たぶん、内部リークなどであろう。
 となると、一つが出てくると、うようよと湧いてくるというもので、
「まるでゴキブリのようではないか?」
 ということになるのだ。
 そのゴキブリのように湧いてくるのも、実は内部リークなのではないだろうか?
 どこの老人ホームも、
「本当はこのことを誰かに告発したい」
 と思っても、自分がそれで首になったり、職場で浮いてしまったりするのが嫌だから、何も言えないのだろうが、
「どこか一か所で問題になってくると、俺だって、言っても問題ないんじゃないか?」
 と考えることだろう。
 ということは、全国で、
「言いたくて悶々している人が、かなりいるということだ」
 それを、誰かがたがを外すと、他の人の呪縛も取れて、手かせ足かせが解けてしまい、一気に噴出してくることになるのだろう。
 それを思うと、
「ここから先はモラルの問題」
 ということになり、
「このモラルの悪さは許せない」
 ということになれば、もうあとは、内部リークの嵐になり、一気に社会問題となるのも時間の問題だということであろう。
 だから、
「俺たちにとって、ここで言わないことが、後悔することになるのであれば、いうに決まっている」
 ということになるのだ。
 それを思うと、今まで何もないと思われていたところから、出てきたと思うと、すぐ近くからも、ウワサが本当になり、警察の立ち入り捜索というのもあったりするだろう。
 何しろやっていることが、
「身動きできない人を、介護する」
 はずの人間が、
「身動きできないのをいいことに、自分のストレスをぶつけるサンドバッグにする」
 というのだから、
「これ以上の、理不尽で、本末転倒なことはない」
 と言えるのではないだろうか?
 それを思うと、老人ホームや介護の仕事というのも、保育園よりもさらにひどい状態だと言っても過言ではないだろう?
 保育園も、言語道断であるが、死んだ人間がいて、苦しみを思うと身につまされるが、
「わざとではない」
 という部分はある。
 しかし、老人ホームの場合は、何といっても、自分のストレスを事もあろうに、自分たちが介護することを仕事としているその相手にぶつけるという点において、
「情状酌量の余地などない」
 というものだ。
 確かに、きつい仕事で、相手をするのが、時々いやになったとしても、人間なのだから、それは無理もないことなのかも知れない。
 しかし、それでも、相手にしていいことと悪いことがあるという意味では、
「あってはならないことだ」
 しかも、やっていることは、常軌を逸していて、言葉にも出せないほどである。
 何といっても、いくらきついからと言って、何もできない相手に対して、拷問のようなことをするのだから、開いた口が塞がらない。
「そんなに嫌な仕事だったら、辞めればいい。もっと他にできる仕事をすればいいだけではないか?」
 というだけのことではないのか?
 それができれば、何も被害者が生まれることも、自分が加害者になることもない。できないことを職にした自分が悪いのではないか?
作品名:禁断のライセンス 作家名:森本晃次