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 だから、事故が起きる時というのは、ほとんどの場合、
「いつも乗っている先生が、たまたまその日お休みで、園長先生がバスの運転をして、もう一人の不慣れな先生が子供たちを見ている」
 という時などに、起きることだったりするのだ。
 そんな状態において、たまたま児童の一人が、椅子の影で見えなかったりすっると、バスに一人残っていても、最後のチェックを適当にしてしまって、扉を閉めてしまうこともあるだろう。
 そうなると、取り残された児童の運命は、風前の灯ということになるのであろう、
 そして、案の定、子供がいないことに気付き、バスを見に行くと、ぐったりとなっているということは、よくニュースなどであるというものだ。
 記者会見なども、まるでデジャブを見ているように、同じ言い訳なので、本当に、
「再現ビデオを見ているようだ」
 ということである。
 内容としては、
「いつもの人が非番だったので、不慣れなものが、やったため、注意を怠ってしまった」
 という言い訳に従事するのだ。
 確かに、
「同じ人が、同じ失敗を繰り返せばアウトだろうが、この場合は、違うところだからアウトではない」
 と言えるだろうか?
 いや、そんなことはない。
 同じ職業の人が、子供を死なせるという重大事故を犯しているのだから、当然、自分たちもそれを踏まえて、注意徹底するのが当たり前なのに、そして、県からも、
「子供の閉じ込めに関しては、十分に注意してください」
 という注意喚起だってあるのが当たり前のことである。
 それなのに、なぜか、同じことが起こるのだ。
 注意喚起がなくても、今ままで起こることがなかったのに、注意喚起をしていて、
「そのつもりで対応していた」
 という人に限って、やってしまうということが起きるのだ。
 それこそ、何と言っていいのか、そう、
「連鎖反応だ」
 ということだろう。
 注意しているがゆえに忘れてしまうということもあるだろう、
 中には、
「マニュアル化して、情報共有をしなければならないのに、それを怠った」
 という人もいるだろう。
 ただ、果たしてそれだけのことだろうか?
「下手にマニュアル化するから、それをちゃんと意識していると思い込み、意識しているだけで、本当の注意を怠るということだってないとはいえない」
 もっとも、そういう人間ほど、
「マニュアルというものがあってもなくても、同じことだ」
 と言えるのではないだろうか?
 なぜなら、マニュアルが注意喚起につながらないからだ。
 マニュアルがあるがゆえに、
「これを確認していれば、大丈夫だ」
 ということで、実践に結び付けなければ意味がないということを忘れてしまっているのだろう。
 さらに、人によっては、
「事故というのは、連鎖するものである」
 と思い込んでいる人もいるだろう
 例えば、交通事故などは、よく連鎖すると言われる。
「重大な鉄道時期であったり、航空機事故など、結構連鎖阿で起こったりする」
 と言われる。
 かなり昔のことだが、
「ホテル火災の事故が前日にあり、その遺族やけが人の家族が、火災現場や、家族に会いに行くということで搭乗した飛行機が、事故を起こす」
 という、とんでもない大惨事になってしまったりしたことがあったのだ。
 同じような事故でなくとも、こうやって人が関わってくるという意味での、連鎖があったりするものであった。
 だから、人によっては、
「ビル火災で娘を亡くし、翌日の飛行機事故で、夫を亡くした」
 という悲惨な人だっていたに違いない。
 そんな奇妙な伝染と言えばいいのか、連鎖反応が起こることは、一種の、
「あるある」
 ということで片付けてもいいだろうが。
 実際に、最近は、幼稚園に預けて仕事に言ったとしても、安心して預けられないということは往々にしてあるののだ。
「高い金を取っている」
 といっても当てになるものではない。
「事故というのは、いつ何時起こるのか分からない」
 と言っても過言ではないだろう。
 それを考えると、
「ただの連鎖反応」
 と言って片付けていいのだろうか?
 もし、事故が起こるには、それなりの何か。
 例えば、自殺などであれば、死にたくなるようなシチュエーションであったり、事故にしても、注意散漫となる時間的なものがあるなどということも考えられる。
 もし、そうであれば、いくら注意しても、防ぐことはできないといえるだろう。
 つまりは、
「注意することで、余計に一つのことに集中し、他のことがおろそかにあるという人もいる」
 と言えるのではないだろうか。
 つまりは、
「最後部の座席だけを気にして、実際には、その手前の座席にいたとして、そのことに気付かなかったり、見ていたとしても、、注意力が散漫になっていれば、見えているはずのものを、そこにいると意識することもないというような、そんな状態であれば、気付かないことがあっても不思議ではない」
 ともいえるだろう。
 だが、これは、
「あってはいけないこと」
 人によって意識が違うのだから、マニュアルだけで防げるものではないだろう。
 もし防げるのであれば、
「連鎖で起こるはずがない」
 ということだ。
 そんな状態を、一体どう考えればいいのか。
 ある意味、これは、連鎖が負になる、
「負のスパイラル」
 なのかも知れない。
「少子高齢化問題」
 というものを考えた時、この幼稚園バスの事故問題まで考えなければいけないだろう。
 そもそも、今の時代は、昔と違って、母親が専業主婦ということはほとんどない。
 昔であれば、子供が学校から帰ってきて、家に誰もいないなどということはなかっただろう。
 母親が、
「おかえり、おやつ、テーブルの上に置いてあるわよ」
 などという平和な受け答えが懐かしい・
 子供が、おやつを食べると、すぐに野球道具を持ちだして家を出ようとすると、
「あんた宿題やったの?」
 と言われて、
「いっけねえ、やってない」
 とばかりに、部屋に戻って、おとなしく宿題をするか、
「帰ってきてからやる」
 と言って、実際にやるやらない別にして、目の前の遊びをとにかく優先させるということものいるのだ。
 まあ、大体、このまま宿題もせずに、遊びに出る人は、宿題などしないだろう。
 ほとんどの場合、遊びに出かけて、終われば、身体のダルさは、尋常ではない。
 気力も失せるほどに衰弱しているはずで、
「特に子供というのは、加減を知らない」
 と言ってもいいだろう。
 それを考えると、
「手加減して遊ぶくらいだったら、最初に宿題が終ってから、遊びに出る方を選ぶだろうからな」
 ということである。
 だから、子供が宿題をしないのは、
「本当に宿題が出たことを忘れてしまっているか?」
 あるいは、遊びに夢中で、宿題のことを覚えていても、
「自分で動くということができない人なのか?」
 ということである。
 宿題というものは、確かに、
「やれると思った時にやらないとできないものだ」
 と言ってもいいだろう。
「好きなものから先に食べる方なのか?」
 あるいは、
「好きなものを後回しにする方なのか?」
 ということでも変わってくるだろう。
作品名:禁断のライセンス 作家名:森本晃次