自分と向き合う
「そんなことはありませんよ。僕は現に孤独も寂しさも、辛いとは思わない。むしろ、自分の時間という意味で、とても嬉しく思っているんですよ。その間に、何かの作品を仕上げることができる。だから、他の人にはないものを得られたと思って、却って、嬉しいくらいで、それらのことを失念している人たちが、逆に可哀そうに見えてくるくらいなんですよ」
というのだ。
「孤独と寂しさが、辛いと思っているのが、実はその人にとっては大切な時間ということでしょうか?」
「ええ、そうです。孤独を辛いと思っている人は、孤独ではない時間を得ようとすると思うんです。孤独ではないということになれば、気心が知れた仲間と同じ時間を共有するということですよね? それは否定しないし、大いにいいことだと思うんですよ。だからといって、一人の時間を楽しんでいる人を見て、それを、辛いと決めつけるのは、どうかと思うんですね。孤独はつらいものだということになってしまうと、孤独から生まれる作品であったり、発明品や芸術は、一体どうなるというんです? 人と共有する時間があったからと言って、そこから、何が生まれるかと思うんです。あくまでも、人と共有するのは、自分が何らかの成果を出したうえでのことではないでしょうか? ただこれをいうと、押しつけということになってしまうので、余計なことは言えませんが、私は少なくとも、皆が利用しているものを最初に開発した人は、自分の時間と向き合って、最高の時間を過ごしたことで、その成果物が生まれたと思うんです。孤独を辛いと思っているうちは、一生かかっても、無から有を生み出すことというのは、できないんだって思うんですよ」
と男はいうのだった。
このような襟府が、話の途中にあった。
最後に、この男の言っていることが証明されたのかどうか、最後にキチンと答えが出てきたわけではない。
曖昧なところで答えが出たような気がするが。それが、男にとっての
「自由」
というものではないかと考えるのだった。
それを聴いた女性も、いつの間にか、この男性のファンになっていて、考え方を、継承しようということを考えていたのだった。再婚した二人も、
「あなたとなら、孤独な時間に自由を見つけられそうな気がする」
ということで、結婚に踏み切ったということであった。
孤独を自由と解釈するのは、人によっては、
「都合よく考えているだけで、まるでいいわけだ」
というような、ひねくれた考えをする人がいるが、そういう人は逆に、
「自分一人の世界を楽しめない」
という人が多いのではないだろうか?
人に下手に関わられて、自分のタイミングを逸したまま、その人に利用されたり、マインドコントロールを受けたりすることもあるだろう。
実際に、有岡の知り合いにもいた。
「その人は、親からコントロールされていて、しかも、その親が義理の関係であったことで、完全に、支配されていた感じだったんだよね。女の子だったので、性的関係がなかったということで、それはよかったんだけど、危なかったかも知れない」
と有岡は言っていた。
偶然が重なって、それが発覚したことで、コントロールされていた子は解放されたのだけど、施設に入ることになり、それまでに受けたことでメンタルがボロボロになり、精神的に病んでしまうことで、そのまま、精神疾患になってしまったというのだ。
病院通いも頻繁で、しかも、時間が経つにつれて、いろいろな症状や病気が発覚する形で、
「障害年金」
を受けたり、介護が必要になったりしたのだという。
支配されたことでのトラウマや疾患なので、介護の人に馴染むまでにも、大変だったといえるだろう。
有岡は、その子のことを一時期好きだったという。好きなまま告白できずに、何とか気持ちを抑えているうちに、まさかそんなことになっているなんて、まったく気づかなかったのだ。
それを思うと、
「何で、気が付いてやれなかったんだ」
という後悔の念に襲われているのだった。
「それにしても、本当にひどい」
いろいろな症状が、時間差で出てくる。
だから、
「これから、どんなのが出てくるか?」
ということを考えただけでも、怖いというものだ。
病気が一気に出てくるというのも、確かにきついだろうが、徐々に出てくるといっても、一つ解決してから出てくるわけでもなく、気が付けばどんどん悪くなっていっているという状況が、
「半永久的に続く」
などということになれば、
「どうしていいものなのか?」
と思わないわけにはいかないだろう。
その子は、今は病院に入院中だという。精神疾患だけではなく、身体も並行して悪くなっているという。
「病は気から」
という生易しい言葉で片付けられるものではないのだった。
しばらくの間、有岡は、彼女のことを気にして、病院に見舞いに通ったり、退院した時には、
「できるだけ、そばにいてあげることで、役に立てればいい」
と思うようになっていた。
それを考えると、
「どこまで行っても、よくなるという保証がない」
という事実に、どこかで精神的にぶち当たることがあると自覚している。
それが、有岡にとって、
「自分の精神を病んでしまう」
ということに結びついてくるということを自覚していなかった。
彼女本人から、
「深入りすると、危ないから、危ないと自分で思ったら、私から離れてね」
と言われていた。
男としては、そういわれれば、
「はい、そうですか」
などと言えるはずもない。
同一の趣味
「精神疾患を患っている女の子と、寄り添っていこう」
と考えていた。
彼女には、
「絵を描く」
という趣味があったのだ。
「俺は小説を書いているんだ」
というと、彼女は興味深げに、
「私も高校時代、小説を書きたいと思って、いろいろやってみたんですけど、結局できなかったんです。それで、絵を描く方に走ったんですけど、そう意味で、小説が書ける人って私は存在しているんですよ」
というではないか。
それを聴いて、
「俺たち、きっといいカップルになれるんじゃないかな?」
というと、彼女の方も、
「そうね、私はあなたを尊敬しているから、一緒にいて、絵を描いていられれば、他にないもいらない」
という謙虚な言い方をするではないか>
それを聴くと、ますます、今後の二人の将来が、明るいもの以外には感じられなくなり、それがさらに素晴らしい未来予想図ができあがりそうで、お互いに夢中になる時間と世界でいっぱいだったのだ。
だが、結果、二人の破局は結構早かった。
数か月ですでに破綻していて、最後に、
「悪あがきがあった」
ということで、惰性のような二カ月程度の、
「先延ばし」
があったくらいだった。
後から考えれば、
「無理なものを押し通した」
と言っても過言ではないのかも知れない。
一番の問題は、
「有岡が、彼女の考えを甘く見ていたということであろう」
そもそも彼女が言っていたではないか、
「そうね、私はあなたを尊敬しているから、一緒にいて、絵を描いていられれば、他にないもいらない」
という謙虚な言葉が問題だったのだ。