自分と向き合う
その主婦の人は、年齢は30代後半くらいだっただろうか?
よく一緒になった40歳前半くらいの男性と、結構話しをしていたっけ。それから、少しして、その主婦が来なくなったので、ママさんに、
「あの主婦の人、最近来ませんねん」
と聞いてみると、
「あれ? 隆二君は知らなかったのかしら? 彼女、再婚したのよ」
というではないか?
ちょっとビックリしたのだが、その理由としては、
「あれから、まだ半年と少ししか経っていない」
ということだった。
「え? 確か主婦だったんですよね?」
とママさんに聞くと、
「ええ、そうよ。でも、ここに来ていた時は別居していて、実家からここに来ていたんですよ」
とママさんは言った。
「そうだったんですね。でも、あまりにも早すぎませんか? 確か、男性と違って女性は、離婚してから結婚するまでには、半年あけなければいけないと聞いたことがあったので」
というと、
「ええ、そうですよ。半年が経ったので、結婚したということになるのかしら?」
と言われ、
「ということは、離婚が成立してから。いや、その前から二人はそういう関係だった? いや。もっといえば、離婚の原因が……」
と言って口をつぐむと、
「本当のところはわからないけど、離婚の原因は違うところにあったみたい。あからさまになっている理由としては、元旦那の浪費癖だったらしいの。ギャンブルなんかで、結構な借金を作ってしまったことが、家計や奥さん自身が怖い目に遭うこともあったというので、その話を再婚相手に悩み事として聞いてもらっているうちに再婚ということになったんでしょうね。ところで、隆二君はどうして、女性だけが離婚してから半年経たないと、再婚できないか知っているかしら?」
と言われたので、
「ええ、知っていますよ。女性の場合、妊娠している可能性があるので、父親の認定という意味で、半年の期間が必要だということですよね?」
というと、
「ええ、その通りなのよ。最近は、男女雇用均等法の観点から、女性の職業の呼び方も変わってきたり、就職の際の差別なども解消されるようになってきたのに、これだけは、どうしようもないということでしょうね。法の下の平等とは言っても、どうしようもないのは、男女の肉体的な問題。こればっかりは、無理なこともあるということになるわけよね」
とママさんは言った。
有岡は、頷くしかなかったが、ママさんの言う通りだということはわかっていたのだ。
その奥さんが、お店に来なくなる少し前に借りた本が、その作家の本だったのだ。
「とても、大人の話を書く作家さんの本なの。もしよかったら、読んでみて」
と言われ、読んだ本だった。
なかなか店に来ないので、渡しそびれてしまっていたが、その作家の本は、恋愛小説っぽいものが多かった。きっと、
「恋愛連作短編集」
だったのだろう。
その作家は、
「連作小説」
という手法が多く使われている。
連作小説というのは、
「一つの題材を大きなテーマにして、長編を、まるで、一話完結型の集合体のようにして、短編集として、世に送り出す」
というもののようだった。
そんな連作小説というものが、前からあるにはあったようだが、一つのジャンルとして確立されたのは、この作家が書き始めてからのようだった。
そういう意味では、
「先駆者」
と言ってもいいだろう。
小説を書いていくうえで、小説の内容を、整理しながら見ていると、連作の中に、
「その順番でなければいけない」
というような書き方をしているというようなこともあるようだった。
「こういう手法は、短編でなければいけない」
ということでもあり、
「長編への足掛かり」
という意味でも重要なものだった。
確かに、短編と長編とでは、まったく手法が違っているので、それを考えると、
「小説を書き始めるには、いい教材だ」
と言ってもいいかも知れない。
おそらくこれを貸してくれた奥さんも、有岡が、
「小説を書きたい」
と言っていたということが分かっていたので、小説を書くための教材としてこれを選んでくれたということは、
「あの奥さんも、小説を自分で書こう」
という意思を持っていたのかも知れない。
だから、どんな本が教材となるかというのも分かっていただろうし、これから再婚する自分には、
「しばらくいらない教材だ」
ということで、貸してくれたということになるのだろう。
実際に小説を書こうとすると、この教材は実に役に立った。
特に、
「最後まで書き切る」
ということには、十分貢献してくれた。
書き切れないというのは、
「途中まではうまく書けても、最後の落としどころが分からない」
ということからであっただろう。
つまり、書き切れない自分が、
「何が悪いのか?」
ということに気付いていない。
あるいは、
「悪いことがあるのに、そこに目を瞑るのが、言い訳であるということを、理解できていない」
ということになるのだろう。
そういえば、奥さんは、
「この小説を読むと、人のふりを見て、我がふり治せ」
ということに気付くと思うの。
という言い方をしたのだ。
それを聴いて、
「逆も真なりだ」
と気づいたことで、書けるようになった最初のきっかけだったのではないか? と感じるのだった。
その小説を読んでいると、
「なるほど、大人の小説だ」
という気分になる。
どこが、そんな気分になるのかというと、一つは、つらい毎日を過ごしているのに、まったく辛くないと自分で言っているのだ。
それを聴いた女が、
「誰が見ても辛い人生にしか見えないんだけど、どうして、そんなに自信をもってつらくないんですか?」
と聴いた。
「僕がつらくないから辛くないと思っているだけで、辛さの基準なんて、人それぞれで違うんですよ。あなたは、私をどう辛いと見ているんですか?」
と男は笑顔で言った。
どうやら、男は、この女性がどこを見ているか? いや、この僕の何を寂しいと思っているというのか、それを分かっているのだろう。
すると、その女性は、
「私には、孤独にしか見えないんですけど、違うでしょうか?」
と聞くと、
「ええ、孤独ですよ。あなたのおっしゃる通りです。でもですね、孤独がつらいものだということを一体誰が決めたんでしょうね? 確かに、世間一般では、寂しくてつらいものだと思います。しかし、私は寂しいとは思いますが、辛くはありません。こういうとまるで言い訳をしているように聞こえるかも知れませんが、決してそうではないんですよ」
というではないか?
「孤独を一足飛びにつらいと、私は思ったのですが、そこには、寂しさということが入るわけですね?」
というと、
「ええ、そういうことです。孤独と辛さの間に寂しさがある。そこまでは一緒なんですよ。でも、その寂しさをどのように感じるかということで変わってくるんですよね?」
「私は、孤独も寂しさも、辛いとしか思えないんですが?」
と女性が聴くので、