自分と向き合う
「自分が甘いものが好きなので、嫌いでない臭いは、甘いものになるが、そいつの場合は、辛いものということになるわけであって、それが分かったのも、甘いものというのがいくら好きでも、度が過ぎるときつくなってしまう」
ということを感じたからだ。
だから、
「辛い物が好きなやつだって。おれよりもたくさん食べれはするだろうが、限界を超えると同じことになる」
つまり、
「問題は、限界の量ということになるのであろう」
ということになることが、自分でも理解できたからであった。
図書館と小説執筆
それは、本に関しても同じことで、
「まずは、好きな本の分類として、雑誌や文庫本、あるいは、専門書のようなものになるのか?」
というところから入って、
「次に例えば文庫本だとすると、小説の種類としての、ミステリーなのか、オカルトなのか、恋愛ものなのか?」
ということに入ってくるのであった。
これは、自分の好きなジャンルを浮き彫りにするもので、匂いの原点を探るかのような気持ちになるのであろう。
そんなことを考えていると、中学生の頃には、図書館の、
「司書係」
になっていた。
部活ではなく、どちらかというと、学校においては、
「学級委員の図書館版」
とでもいえる仕事だった。
制服の上から、図書委員の腕章をつけ、そう、
「生徒会長」
に近いというべきか、その中でも、
「風紀委員」
に近いといってもいい。
彼にとって、この司書係というのは、図書委員のようなものであるが、若干の違いがあった。
実際に、図書委員というのは、存在している。それ以外のところで存在している、
「司書係」
というのは、どういうものだと言っていいのだろうか?
この係は、図書館の中にある、
「司書室」
つまりは、教員室とでもいえばいいのか、図書館の仕事をしている人の詰め所のようなものであり、図書館の職員の必要なものが入っている。
「図書館の司書になるには、資格が必要だ」
ということである。
少なくとも、司書検定に合格するか、地方公務員試験に合格する必要があるようで、立派な資格なのである。
だから、図書館の司書室と、本棚、あるいは、学習室などの、
「生徒の場所」
とは一線を画している。
それは、
「資格を持っている先生の部屋が、職員室、教員室と呼ばれるところにある」
というところであろうか。
もっとも、教員室などには、
「生徒に絶対に見られてはいけない」
というものもたくさんある。
「生徒個人の成績表」
あるいは、
「まだ行われていないテストの問題や回答」
などというものは、絶対に見られてはいけないもので、見られたりすれば、始末書どころの問題ではなくなってしまうのだ。
そういう意味で、司書室には、そこまでのものはないだろう。
なぜなら、
「司書の人と、一般の生徒では、それほど深いつながりというものがないからであろう」
ということである。
図書館というのは、資格が必要な人が勤務するところであり、そういう意味では、
「神聖なところだ」
と言っても過言ではないかも知れない。
それを思うと、司書係になったからと言って、自分まで資格を得られたわけではない。しかも、将来において、司書資格を取得し、そのまま司書としての仕事に就こうという意思があるのかどうか、その頃には、分からなかったのだ。
そんな中学時代を過ごしていた彼、そう彼の名前は、
「有岡隆二」
と言った。
彼にとって、中学時代の司書の係は、あくまでも、
「本の匂いを感じられるところにいたかった」
ということであったが、それなら、
「図書委員の方がよかったのではないか?」
と言われるかも知れないが、実際には、そこまで感じなかったということであろう。
とにかく、中学三年間というのは、
「司書の係ができたこともあってか、想像以上にあっという間だったような気がした」
ということであった。
そんな司書の仕事の手伝いなので、本当に雑用のようなものであったが、有岡とすれば、
「図書委員よりは、しっかりと仕事ができている」
と思っていたのだ。
図書委員という仕事は、同じ雑用でも、主な仕事は、
「片付け」
であったり、
「図書の貸し出し受付」
くらいだった。
だからと言って。司書係が、
「ちゃんとした仕事ができた」
とは言い切れないが、それでも、
「しっかりと仕事は自分なりにできていた」
と思っている。
「自己満足」
なのかも知れないが、自己満足なりに、他の仕事にはないものが、そこにあるということを感じさせられる仕事だったのだ。
それを思うと、
「一生懸命にやっていたことが、実を結ぶことがある」
ということが分かった気がした。
それが、中学時代であり、その思いを高校生になってできたわけではなかった。
高校時代は、入学してから、一年生の間は、精神的にも余裕があったが、二年生になってからというもの、すでに受験を考えなければいかず、高校時代が、
「何かの犠牲の上に成り立っている」
と思えてならなかった。
その犠牲というものが、何であるかということを、正直分かっていないのだ。
だからこそ、
「大学に一発で入って、証明することしかないんだ」
と思った。
ただ、
「何を証明するのか?」
ということは、正直分からなかった。
やってみることで、そして成功することでしか証明できないものであるならば、迷うことなく、突き進むだけのことだった。
実際に勉強をした成果なのか、それとも、目指した大学にちゃんと成績がついてくるだけの勉強ができたということからなのか、
「それなりの自信」
というものが、自分の中にあるということが証明された気がしたのだが、高校時代に感じていた、
「証明」
というものが、本当に見つかったのかというと、どうも気分的にも曖昧にしかならなかったのだ。
大学に入ると、最初こそ、高校時代の反映はあるようで、
「人と馴染めるだけの自信がない」
と思っていた。
しかし、入学してから、普通に講義が始まり、それが毎日の生活として定着するようになるまでになってくると、
「自分の自信というものの証明がどこにあるのか分からなかったが、日課にすることができれば、大学生活に馴染んだといえるだろう」
と思っていた。
しかし、少しの間、
「まだ馴染めていない」
という思うが強かったのは、
「人間関係に望めていない」
ということから思ったことであった。
「大学時代をいかに過ごせばいいのか?」
ということは、
「他のことに際しても、最優先にして考えなければいけないことなのか?」
ということが分からないと、結論めいたことは見つからないような気がしてくるのであった。
そして、大学に入ってから、すぐくらいだっただろうか、すぐに友達ができた。
その友達の趣味もまったく分かっていなかったが、話を聴いてみると、
「小説を書くことだ」
というではないか。
同じ本に関わることであり、その思いは、自分でも最初分かっていなかったことだったのだが、