自分と向き合う
「プロバイダーがテンプレートとして用意する本当に読んで字のごとくと言ってもいいような、簡易ホームページ作成というツールで、作るものもあった」
さらには、
「メモ帳から、プログラミング言語と呼ばれるものをタグ打ちという形で実際に打ち込むもの」
というものであった。
簡単なのは、プロバイダーが用意したテンプレートであろうが、ただ、つぶしが利くものではない。ある意味、
「誰が作っても、同じようなものだ」
と言えるのではないだろうか?
しかし、これが、
「一番難しい」
と言われるタグ打ちであれば、どんなものでも、ある程度は順応性があるというものだった。
それに、他人のページのソースを表示させ、必要な部分をコピーして持ってきて、流用するということもできる。これも、
「言語が分かっていないとできるものではない」
という一種のテクニックに違いないといえるだろう。
そして、
「ホームページを作るうえで一番大切なもの」
ということで、最初に考えるべき、
「企画」
ということで、必要なものが、
「コンセプト」
という意味での、一種の、方向性というものかも知れない。
「どういう人が必要としてくれるサイトなのか、誰が主に見てくれる一種の、お得意様のようなものなのか?」
ということによって、どのようなものとするのかが決まってくる。
そこに入ってくるのが、
「コンテンツ」
といわれる、ページではないだろうか?
「プロフィール」
「掲示版」
「日記」
「お友達」
くらいは必要な引き出しであろう。
最後のお友達は、特に、仲間を増やす意味で、リンクを貼り、来訪者に、友達紹介という意味で、紹介文を載せてリンクを貼ると、お互いにカウントアップにつながるというものだ。
それこそが、
「SNS」
というものの本質なのではないだろうか?
それに、何となくであるが、
「これは季節だったのかも知れない」
と、今は感じているが、それを一言で表現すれば、
「本の匂い」
というものであろう。
「におい」
という字を感じで書いた時、
「臭い」
あるいは、
「匂い」
とあるが、本の匂いは、
「ちょうど、その中間にあたるのではないか?」
ということであった。
紙の臭いというのは、久しく感じていないのだが、その臭いは、やはり、
「臭い」
という方だったと思う方が、しっくりくるのだった。
そんな本の、紙の匂いが最初に好きになったのは、小学生の頃の、確か、
「国語の教科書」
だったのだ。
あの頃は、教科書でも、教科によって使用する出版社のものが違っていた。今もそうなのかも知れないが、特に国語の教科書の匂いが最高だったのだ。
何か、甘い香りがしたのだ。そう、確かイメージとしては、
「金木犀の香り」
だったような気がする。
しかも、当時の匂いと、実際の感覚が合致して、どんな匂いだったのか分かったのが、
「つい最近」
ということに自分でもビックリするのだった。
さらに、同じように、最近になって気づいたのは、たぶん算数の教科書だったと思ったが、柑橘系の香りだったのだ。
柑橘系というと、ミカンか、レモンを感じるが、実際に食するとすれば、レモンは正直きつい。はちみつでも入っていなければ、そのまま食べることはできない。
そう、中学の頃の部活だったが、当時は、
「運動部では、練習中に水を飲んではいけない」
というのがあった。
これはもちろん、試合においても同じことで、当時は、
「練習中や試合中に、水を飲むと、バテてしまう」
ということが言われていたのだった。
その時は、
「それはそうだ」
と、いうことで、その理由に納得がいったが、実際に、
「水分を適度に摂らなければいけない」
ということを知ったのが、
「熱中症」
に罹らないようにするためだ。
ということを分かってくると、
「ああ、なるほど」
と分かった。
実際に、小学校などでの、全体朝礼を、校庭で行う時、5分もしないうちに、
「生徒がバタバタと倒れていく」
というのが分かった時、
「どうして水を飲むのか?」
ということに納得した。
ただ、その時の病名というのが、
「熱中症」
であったことが気になったのだ。
というのも、
「昔は確か、日射病」
と言っていたのではないか?
と感じたからだ。
ただ、調べてみると、
「日射病は、熱中症などの総称」
ということが分かると、
「高温多湿で引き起こされる」
という特殊環境の場合を、
「熱中症」
というのだということで、限定した言い方になったのだろう。
似たようなもので、
「副作用」
と
「副反応」
がある。
「副作用は、副反応のようなものの総称」
だということが分かれば、
「なるほど、ワクチンなどは、副反応なのか」
と納得できるのであった。
そんな本に興味を持ったことから、中学に入ると、図書館という場所が好きになった。
「この場所にいるだけで、いい匂いに包まれているような気がする」
と感じるようになると、それまで嫌いと思っていた臭いでも、本から漂ってくる匂いであれば、好きになれるような気がするのだ。
しかも、図書館というと、いろいろな臭いがまざっている。中には、腐ったような嫌な臭いを感じることもあり、それは仕方ないと思って、その瞬間は諦めるしかなかったのだった。
「小学生の頃までは、嫌いだったはずなのに」
という臭いも、きらいではなくなると、逆に、今度は、好きだったと思えるような臭いが嫌いになったのだ。
「ちょうどバランスが取れている」
ということなのだろうか?
と思ったが、そんなこともなかった。
ただ、
「小学生の頃までは好きだったはずの食べ物が、中学生以降では嫌いになったものも結構あった」
ということを考えると、
「どうして嫌いになったのだろう?」
と自分に言い聞かせて返ってきた答えは、
「臭いが嫌になったんだ」
ということであった。
しかも、自分に問い合わせることで、すぐにその答えが返ってきたのだが、それも、実に自分では面白いと感じたことだったのだ。
それを考えて、
「何か共通点がないだろうか?」
と感じると、そのほとんどが、臭いの質の、
「究極に近い味」
だということを感じると、分かってきたような気がしたのだ。
「酸っぱい」
「辛い」
「渋い」
などという、
「甘いもの以外」
のところで、その究極の味は、とても受け入れられるものではないということが分かったからだったのだ。
しかも、それらの味は、臭いも結構きつかったりする。同じきつい中でも、甘いものだけは、そうでもなく、ほとんどを受け入れることができる。
「皆もそうなんだろうな」
と思っていて、そのことを、大人になってから人に聴いてみたことがあったが、
「そんなことはないぞ、お前が言っている、甘い匂いというのが、俺にとっては、辛い臭いに近いものだからな」
ということであった。
ということは、