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自分と向き合う

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「最初から、男尊女卑などという考えがなければ、存在しないはずだと思える、男女雇用均等法などというものが叫ばれ出して、今度は女性の立場が、平等で止まればいいのだが、行き過ぎて、強くなってしまう場合」
 というのもあるだろう。
 何しろ、
「女性の立場が圧倒的に強くなったことで、痴漢や盗撮などという、女性に対しての犯罪などでは、第三者は、今までの歴史的経緯から言って、起こったことを、事実関係を確かめることなく、男性が悪いと決めつける場合がある」
 つまり、これが一番怖いところで、
「群集心理」
 と言ってもいいのだろうが、
「まわりの他人は、男女平等の見地から、女性が黙っているのをいいことに悪さをする男性」
 というものを許せないという気持ちになり、女性を助けるということが、正義なのだということを正論だと思っているだろう。
 しかし、指摘された男性は、まったくの無関係な人で、ただ、まわりの雰囲気にのまれて、
「犯罪者だ」
 というレッテルを貼られる。
 何と言っても、大群衆の中で、第三者が、
「こいつが犯人だ」
 とばかりに、一方的に決めつければ、まわりもそれに賛同する。
 そうなってしまうと、いくら、
「俺は何もしていない」
 と言っても、言い訳にしかならない。
 警察に突き出されて、尋問を受け、
「やってもいないことを白状させられる」
 というのが、当たり前のこととして君臨してしまうと、
「俺が悪いのだろうか?」
 と、やってもいないのに、少しでも弱気になると、警察の思うつぼだ。
 しかし、こんなことがあってもいいのだろうか?
 これでは、冤罪というものが、増える一方ではないのだろうか?
 つまりは。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
 ということであって、必要以上に思想や考え方を煽ってしまうと、その煽りというものが、危険であるということを、どこまで理解できるかということが問題になってくるのであった。
 だが、その危険性を理解している人がどれだけいるだろうか?
 下手をすれば、
「明日は我が身」
 なのだ。
 今日は、犯罪者を警察に突き出す立場になって、
「いいことをした」
 と言って有頂天になっていても、翌日に同じシチュエーションで、今度は、
「この人が、犯人です」
 と他に人に手を上げられ、犯人に仕立て上げられないとも限らないのだ。
「俺は、昨日犯罪者を捕まえたんだぞ。そんな俺が犯罪を犯すわけないじゃないか」
 と言ったとして、それを事実関係として見つけたとしても、警察から言わせれば、
「それはそれ、これはこれ」
 ということで、秒で、
「そんなことは関係ない」
 とされてしまって、どうしようもなくなってしまうことだろう。
「そんな理不尽な」
 と言っても、打てあってくれないのが、警察だ、逆に、
「ひょっとして、昨日のお前が犯人を警察に突き出したのは、自分が実際に痴漢か何かで捕まった時、昨日、別件で現行犯逮捕に協力したということで、警察の目をごまかそうとでもしたのか? 昨日は昨日、今日は今日だ。そんな当たり前のことも分からないのか?」
 ということになるだろう。
 そして、
「お前が犯人に仕立てあげた人も、今のお前と同じ気分だったのかも知れないな」
 ということで、警察は冷めた目で男をみることだろう。
「昨日は、あれだけ、犯人逮捕にご協力ありがとうございますということで、大いに感謝されたのに」
 と思ってみても、後の祭りだ。
 それとて、
「俺が犯人を捕まえたんだ」
 ということで有頂天になったことで、
「警察は、これから俺の味方だ」
 というような、あり得ない発想になったとしても、ある意味無理もないが、まったくと言っていいほど、無防備だったということで、
「明日は我が身だ」
 ということを、まったく感じていなかっただろう。
「策を弄する人間は、相手が策を弄するということに対して、えてして、気づかないものだ」
 と言えるであろう。
 探偵小説などで、凶器の隠し場所として、一番安全なのは、
「一度警察が捜査して、そこに何もないということが分かっている場所だ」
 という話があった。
 それだけ警察というところは、最初に考えていたことを、最後まで正しいとして、考え方に、
「融通が利かない」
 ということが言えるだろう。
 だから、いくら昨日、犯人逮捕に協力した人でも、
「そんな人が、犯罪を犯すわけがない」
 と言えるわけがないのだ。
 そう思い込んでいるのは、犯人逮捕に協力した方で、もし、それが冤罪で、その人の家族などから恨まれているとすれば、いつ冤罪を吹っ掛けられるか分からないということである。
 なぜなら、相手は自分を恨んでいるわけであり、遠慮など、最初からないからではないだろうか?
そうなると、そこから生まれるのは、
「怨念の連鎖」
 というものではないか。
 例えば、
「最初に誰かが、何かの理由で父親を殺されたとすえば、その息子が、敵討ちを行う。その息子が今度は、自分の息子に報復する」
 という、いわゆる、
「復讐の連鎖」
 である。
 元々の理由があるのだろうが、分かっているのは、父親を殺されたという事実。もちろん、警察の捜索である程度はわかってくるのだろうが、どこまでが、本当のことなのかということが分からない。
 そうなると、
「人とのかかわりの大きさに、恨みは関係ない」
 ということになる。
 となると、
「この人は親友だから。自分に殺意を抱いたり、復讐を企てるなどということはありえない」
 などということはないのだ。
 それが、
「他人は他人」
 ということであり、
「いくら親友とはいえ、他人でしかないのだ」
 ということになるのだ。
 だから、人とのかかわりは、
「微妙なくらいの方がちょうどいい」
 といってもいいだろう。
 特に、
「相手のことを、頼りがいのあるお兄ちゃん」
 というくらいに慕ってくれているくらいの方が、慕われる方としても、一番付き合いやすいのではないだろうか?
「俺もその方が、接する時に、他人としての目と、守ってあげたいという距離感で見ることができる。この距離感は、相手を他人として見ることができてこその距離感ではないだろうか?」
 ということになるであろう。
 というのも
「相手を他人として見る力が備わっていないと、相手の尊厳を尊重できず、存在意義まで否定してしまわないとも限らないのだ」
 ということになるのであろう。
「恋人であっても他人。夫婦であっても、しょせんは他人だ」
 ということであるが、では、
「肉親は、他人なのだろうか?」
 ということになるのだが、有岡の考えは、
「他人」
 ということである。
 つまりは、本人でない限りは、すべてが他人なのだ。
 他人というのは、
「尊重しなければいけない」
 ただ、その尊重のし方は、なかなか難しい。
 一番大切なことで、基本的なこととして、
「その人の人生に介入してはいけない」
 ということなのかも知れない。
 夫婦や肉親ともなると、ある程度の介入は致し方ないのだろうが、すべてを肯定してしまうと、存在意義をすべて否定してしまうことに繋がり、そうなると、一人の人間の人格を抹殺することになる。
作品名:自分と向き合う 作家名:森本晃次