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自分と向き合う

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 を取ればいいのだろうが、実際には、嫉妬してしまっているのだ。
「住む世界の違う人たちだけで、世界を作って、俺の入る隙間はない」
 という、そんな思いに操られ、嫉妬心から、疑心暗鬼や、猜疑心を抱いてしまうようになる。
 ある意味、逆のパターンのようであり、だからこそ、嫉妬心が浮かんでくると、年齢を重ねても、どうすることもないということになるのではないだろうか?
 と感じるのだった。
 そのように感じるようになると、近くにいる女の子を見ていて、
「皆同じに見えてくることがある」
 という発想が出てくるのだった、
 その子が、小さかった頃を想像してみて、
「この子が大きくなると、彼女のようになるのだろうか?」
 という発想をしてみると、果たして、その想像通りにイメージできることができたのだろうか?
 そんなことを思っていると、
「想像がうまくいくことは、ほとんどと言ってなかった」
 と思った。
 それだけ、自分が想像するのが下手だということなのか、それとも、想像できないほど、彼女の状態がおかしいのかということであった。
 そういえば、有岡が、子供の頃に、近所に住んでいた女の子に、
「不幸を絵に描いたような子が住んでいる」
 という話を聴いたことがあった。
 どのような子なのかというのは、実際に逢ったことはなかったので、想像の中で作り出したという、そんな感じの女の子だったのだ。
 その女の子のことは、イメージでしか湧いてこなかったが、子供だったので、イメージすらできることがなかった。
 だから、
「大人になれば分かるのかも?」
 と感じることで、そのイメージの途中で止まった状態で、意識を記憶に格納していたのだ。
 普通であれば、
「そんなことができるのだろうか?」
 と考えるのだが、不思議なことにできるのであった。
 それと思ったとしても、贔屓目に見ても、想像ができなかったので、今の彼女と結びつけて考えることなど、本当に難しいことだったのだ。
 彼女を想像の中に当てはめるとすると、
「なかなか難しい」
 としか思えないのだった。
 その女の子がどのような壮絶な人生だったのかというのは、その一つ一つのエピソードだけでも、想像を絶するものだった。
 その状態で、
「実はその経験は、一つのことから繋がっているのではないか?」
 と思うのだが、果たしてその通りなのだろうか?
 そんなことを考えてみると、
「自分の幼少期で、どうしても思い出せない時期がある」
 というのを思い出した。
 その時期というのは、実際に、どの学校の何年生からなのかということも、正直分からないでいた。
 だが、確かにその時期は存在していて、それ以前の記憶が曖昧だったり、というのも、他の記憶との間の時系列が、ハッキリしないということからであった。
 時系列というのは、
「ある程度までは、意識の中でくすぶっていたものが、ある日突然に、記憶という格納場所に入ることで、その記憶を紐解くためのキーワードを使うことで、初めて、時系列としての記憶を紐解くことができる」
 ということを意識していることで感じることができるのではないかと思うのだった。
 だから、
「記憶が格納されているところには、どうでもいいというような記憶も含まれているので、多すぎる情報量は、凝縮して格納しておかなければならず、致し方なしの状態から、紐解くときだけ、表に出す記憶をどうすればいいかを考えさせられるのである」
 というものであった。
 記憶というものが、引っ張り出される時は、一度意識を通らなければいけないのだろうか?
 ただ、
「そういうことがあった」
 という事実関係の有無だけでいい場合は、いちいち、意識の介入を必要としないのではないかと思うのだ。
 意識というものを介在しないのであれば、どんなに遠い記憶であっても、思い出すことができる。
 しかし、中には、
「記憶として格納されたものの中には、自分が未来において、意識を通して思い出すことを必須とするようなものが、存在していて、それをいつ思い出すかということも、最初から決まっていた」
 と考えることもあった。
 有岡の中で、一つそのキーワードというものが、どういうものなのかということを、今回自分でも理解できたような気がしたのだ。
 その言葉というのは、
「人は人。つまり、他人は他人、自分は自分」
 という、まるで、禅問答のような発想であった。
 この言葉を聴くと、普通なら、
「何か、冷めて見ているようで、嫌だな」
 と感じる人もいるのではないか?
 確かに、人の人生において、人との交わりが大切であり、不可欠であることも分かっている。
 しかし、だからと言って、人と交わることで、不幸への坂道を転がり落ちるという人だっているわけだし、信じやすい人が、
「信じてはいけない」
 という人を相手に信用してしまい、予期せぬ人生を歩まされてしまう、
 つまり、
「人に騙される」
 ということを余儀なくされる人だってたくさんいるのだ。
 それを考えると、まずは、
「自分は自分」
 という境界線というか、結界を作っておいて、何人とも踏み入れることのできない領域を確保しておくことが大切なのではないだろうか?
 自分と他人との間に、絶対的な境界線を引くことは、ほとんどの人が無意識にしていることだろう。
 ただ、中にはそれができず、
「他人に、つい頼ってしまう」
 という、
「依存症」
 になってしまうことも得てしてあるというものである。
 それが、人生において、
「自分をいつも見ていないと、時間に流されてしまう」
 ということになるのであろう。

                 大団円

 時間というものは、
「規則的に、そして、誰に対しても平等に動いている」
 と言えるものだった。
 人生というものが、どういうものなのか?
 という壮大なロマンを考えていると、彼女を、
「俺が守ってやるんだ」
 という発想になっていることが、
「意外と自分の足かせになっているのではないか?」
 と感じるようになっていたのだ。
「足枷という言葉も少し、物騒な感じでもあるが、そもそも、その人に対して、何かというものをしてやるという考えが、おこがましくも傲慢なのではないかということではないか?」
 と考えるが、
「人は人、自分は自分」
 ということを考えると、
 少しでも、上から目線になってしまうと、相手よりも、少しでも、高い位置をキープしようとして、支配欲などという、まったく無駄な欲が出てくるのではないだろうか?
「マウントを必死で取りたがる」
 と人が、今では結構たくさんいる。
 今の時代には、
「コンプライアンスというものが、叫ばれるようになり、上から抑えつけたり、社会的な立場で、特に仕事場などでどうしても必要な、上下関係を使っての、他人に対しての圧力、今までであれば、それもやむなしと思われていたことも、今の時代では、アウトだということになるのだ」
 ということである。
 男女差別というのもそうだ。
 昭和の頃まで脈々として存在した、
「男尊女卑」
 という考え方。
 そんなものが存在したから、今の世の中で、
作品名:自分と向き合う 作家名:森本晃次