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自分と向き合う

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「誤差の範囲だ」
 としか思っていない。
 根本的な違いについて、有岡が気づいていないのだから、彼女としても、少々の歩み寄りくらいでは、理解できないところがあるのだった。
 あくまでも、彼女の方が、
「兄のように慕っている」
 ということであるから、お互いの見え方が違っている。
 有岡の方は、
「上から目線」
 彼女の方が下から見上げているのだ。
「どちらの方が、近く感じるというのか?」
 ということを考えてみたが、その答えは、意外と簡単なものだった。
 もちろん、
「高所恐怖症」
 のような人がいるとすれば、問題なのかも知れないが、基本的に、
「下から見上げる方が、近くに見える」
 ということではないだろうか?
 下から上を見上げるようが自然であるし、上からの目線には基本的に慣れていない。
 高所から覗くとどうしても、恐怖を拭い去ることはできず。それが、いかな状況を作り出すのかということであった。
「俺の目線と、彼女の目線の違いが、きっと、俺には分かっても、彼女には分からないだろう」
 というのは、自分は小さかったことはあるが、彼女には、大きかったという経験はないので、あったとしても、
「上の階から下を見下ろした」
 という感覚ではないだろうか?
 あくまでも、
「理屈の上で」
 ということであり、いくら有岡が小さかった頃があったといっても、その時、偶然にでも、意識していたものが、記憶として残っているわけもなく、そういう意味では、
「お互いに立場は同じだ」
 と言ってもいいのではないだろうか?
 それを考えると、
「見方も違えば、それによって風景だけでなく、距離も大きさも変わってしまうということではないか?」
 と言えるであろう。
 そんな中で、上からの目線も、実は悪いというわけではない。気持ちの入らない上から目線というのは、
「空気を読めずに、自己中心的な発想」
 が多いのだが、見守る気持ちが入っている場合は、上から見ている方が、
「暖かい空気を下に送ることができる」
 という発想と、
「上から見える光景は、まわりすべてが見渡せる」
 ということから、
「自分が、まわりを癒している」
 あるいは、
「自分が、まわりの導いている」
 ということから、決して、
「上から目線」
 というのは、
「悪いものではない」
 ということになるのだ。
 だから、特に相手が、精神疾患を持っている人が下にいるとするならば、
「上から、引き上げてあげる」
 という発想から、
「自分が助けている」
 という発想になる。
 これを、まわりから見て、引き上げている人が、自己満足でやっているなどと見られてしまうと、言われた人間だけでなく、助けられている人にまで、禍が及んでしまうということだってあるだろう。
 精神的に言われ慣れていない人は、心にもないことを言われると、精神的に落ち込んでしまい、それまでできていたことができなくなる。
 さらに、下にいて、いつも助けられるという関係にある人にとって、
「命綱を外されたか」
 のようなものである。
 つまり、
「心無い人間のたった一言が、二人同時に傷つけてしまい、さらに、助けられるはずの人の命綱を切ってしまうということになる」
 ということを、まったく考えていないのだろう。
 普通であれば、
「自分がこれからすることが、どのような影響を及ぼすかということ、さらに、言われた人間が、いかなる責任を背負っていて、その重さも分からない人間が、誹謗中傷などということを、簡単にできるのだ」
 ということである。
 今でこそ、法律が厳しくなって、SNSなどでの誹謗中傷に対しての、
「開示請求」
 を、今までほど厳しくなくできるようになったし、
「実際に罪になるようなことは、直接の刑法犯に照らし合わせて処罰されるようにもなっている」
 ということであるが、法律が改正されてすぐなどは、まだまだ被害者の数に対して、解決される比率は実に低かった。
 何と言っても、被害者が告発しないと、表に出てこないものである。
 誹謗中傷によって、自殺を企てる人が実際に出ると、やっと、政府も行政も動き出すというわけだが、そもそも警察のように、
「何か事件が起きなければ、まったく動かない」
 という状態だったのだ。
 ストーカー事件しかり、誹謗中傷しかり、それも、被害者の告発があってこそである。
 被害者も、覚悟を持って警察に訴えているのに、その警察が、何もできないという理由で、何もしないのだから、
「本末転倒も甚だしい」
 と言えるのではないだろうか?
 そもそも、そんな風にしたのは、昔の警察の捜査方針の中で、
「別件逮捕」
 あるいは、
「公務執行妨害」
 などという言葉で勾留し、冤罪を誘発したことから始まっている。
 それこそ、動けないというのは、元々の警察のやり方のひどさが引き起こしたことで、本末転倒もいいところである。
 彼女は、そんな詐欺に一度引っかかったということを言っていた。何とか、弁護士に相談したりして、詐欺集団を特定できたことで、警察も密かに動いていて、その、
「被害者の会」
 による集団訴訟にて、幾分かのお金も戻ってきたということであった。
 そもそも、彼女はそこまで他の人ほど、お金をつぎ込んだわけではないが、少ない年金などを騙し取られたことで、生活にも支障が来たほどだった。
 その状態を考えると、
「私は、詐欺にひっかかったという意識はなかった」
 という。
 たぶん、精神疾患に付け込んでのことだったのだろうが、一体、どういう手口だったのかが気になるところであったが、わざわざ疾患のある人間に、過去の辛い思い出を思い出させるようなことをしなくてもいいだろう。
 それを思うと、
「本当に詐欺集団というのは、許せない」
 ということになる。
 実際に被害に遭った人の中には、精神疾患の人も結構含まれていたという。
 そういう人には、どうしても女性が多く、男性が甘い声で親切にすると、どうしても、甘えたくなるのか、引っかかりやすいという。
 今であれば、
「詐欺に手口は、大体解明され、大きく騙されるということもないかも知れない」
 というのも、
「もしあったとしても、被害は一回だけで、騙し取ったら、すぐに連絡不通になったりするのだろう」
 だから、
「騙された」
 と思った時には、時すでに遅しであり、それだけ、たくさんの人が引っかかりやすくなっている。
 つまりは、一人に目をつけるというよりも、
「下手な鉄砲数うちゃ当たる」
 といてもいいだろう。
 それこそ、詐欺メールや、詐欺電話のように、
「100人に電話を掛けて、一人くらい引っかかってくれたらいいだろう」
 という程度になるのだ。
 実際に、詐欺メールや電話などを見て、思わず振り込んでしまうという、
「オレオレ詐欺」
 あるいは、
「振り込め詐欺」
 などが横行した時代があった。
 しかし、彼女の場合は、
「そんな詐欺電話などではなく、実際に男が忍び寄ってきての、人情に訴える形のものだった」
 というのは、かなり昔。ちょうど、昭和末期くらいの頃にあった詐欺とよく似ているものであった。
 あの時は、ターゲットは老人だった。
作品名:自分と向き合う 作家名:森本晃次